指導者となるために必要なことは、偉大な包容力をもつということである。
ちょっとした感情の行き違いや、物の貸借関係等の些細なことで、自分のために協力してくれる重要な友人や部下を失うようなことでは、偉大な仕事を完成させてゆくことは出来ないのである。
諸君の協力者が諸君に対して面白くもない行為をした時には、彼等を責める前に先ず彼等が何故にそんなことをせねばならなかったか、彼等がそんなになったのは諸君自身の彼等に対する愛が足りなかったのではなかったか? というように先ず自己反省をしなければならない。
相手を責めるということは相手を排斥することであって、自分への協力をことわることであり、折角自分の中に入ってきたものを外へ放り出してしまうことなのである。 水を沢山入れようと思えば大きい器が必要であると同じように、諸君が偉大な指導者になればなる程、諸君自身の器が大きくなる必要があるのであって、どんな人間が諸君のふところへ飛び込んで来ても包容できる、偉大な包容性というものが必要となってくるのである。
包容力を養え、ということを強調すると、すぐ 『我慢したり、耐えたりする』 人があるが、これは根本的に誤りであって、聖経 『甘露の法雨』 の冒頭に 『怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ』 と説かれているのである。 包容性とはその根源が愛に基いたものでなければ、真の包容性ではないのであって、結局 『万物と克く調和すること』 なのである。
調和とは感謝であり、感謝は自他一体の愛から生れてくるのであって、太陽が地上の総てのものに惜しみなく光を与えるが如く、自分にとって都合がよいとか悪いとか、美しいもののみに光を与えるというものではなく、太陽は総てのものに平等に光を与えるが如く、好きとか嫌いとか都合とか不都合という、感情や利害関係によって支配される愛は、ニセモノの愛である。
相手の欠点をほじくり出して排斥するような偏狭な心では、指導者としての資格はないのであって、偉大な仕事はできないのである。 太陽が肥料の上にも光をあてて、それを美しい花に変ずるあの偉大な包容性を、吾々は学ばねばならないのであって、偉大な包容力を持つならば、集り来る如何なる人々を唯々すばらしい人々に変えてしまうのである。
諸君は自分が正しいからと云って、決して他人の不正を責めてはいけないのである。
パウロは 『汝ら信仰の弱き者を容れよ、その思うところを詰るな。 或人は凡ての物を食うを可しと信じて、弱き人はただ野菜を食う。 食う者は食わぬ者を蔑すべからず、食わぬ者は食う者を審くべからず、神は彼を容れ給えばなり』 (ロマ書 14章1ー3) と説いているのであって、吾々は信仰に入ったからと云って、或は神についての多少の知識を持つからと云って、信仰薄き者或は信仰なき者を決して軽蔑してはならないのである。
自分が神の子であるという自覚を得れば得る程、総ての人を神の子として拝み、そして包容するようになるのが本当の信仰であって、多くの人々の中で一日でも早く神と結ばれた諸君は、偉大な包容力を持って総ての人々を限りなく愛さなければならない。 諸君が他人のことを心配したり責めたりしなくとも、神は既に総てを知り給い、全智全能なる神は彼を最もよく導き給うのである。
包容性を持つということは、絶対なる神を信ずることになるのであって、諸君が真に神を信じ、諸君自身が無限愛なる神の子であるとの自覚を得るならば、諸君に包容性は自然にそなわってくるのである。
技巧的な包容性はニセモノであって、必ずメッキがはげる時が来るのであるが、神の子の自覚から生れてくる包容性こそ、真の包容性であり、諸君を偉大な指導者となすのである。
徳 久 克 己 医博 『生長する青年』 25年11月号
光明法話は左欄 『今日の言葉』