毎日、そして毎刻、あなたの心の世界に神を念ぜよ。 『神があらわるれば善となり、義となり調和おのずから備わり、一切の生物ところを得て争う者なく、相食む者なく ・・・・・ 』 と聖経は示し給うているのである。 常に神を念うことなく、常に敵と、戦いとのみを念うことによって調和ある平和の世界は実現のしようはないのである。 私たちは常に 「敵の無い世界」 「争いのない世界」 のみを想見しなければならないのである。
聖経 『天使の言葉』 には、 『実相世界の住居は悉くこれ生長の家なれば、住民に飢えなく、悲しみなく、争いなく、病なく、万の物ことごとく意に従って出現し、用足りておのずから姿を消す。 円満具足清浄微妙の世界、これ実相世界、これ汝らの世界、このほかに世界あることなし。』
と示されているのである。 この聖句を法華経の 『衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にもわが此土は安穏にして天人常に充満せり』 と対比してみるとき、 『このほかに世界あることなし』 の意が津々として無限に深い意味をもって感得できるのである。
観普賢菩薩行法経には 『無量の勝方便は実相を思うより得』 と示されているのである。 実相世界の 『一切の生物処を得て争うものなく相食むものなき』 永久平和の世界は、決して毀れることはない常住の世界ではあるけれども、その 『実相を思う』 又は 『実相を観ずる』 ことだけで、実相世界の永久平和の世界が実現するのではないのである。
『無量の勝方便は実相を思うより得』 という普賢経の意味は、実相を思うとき、実相の円満完全な姿が実現するための勝れたる方便、過程、手段が自然に思い浮んで来て、それを実行することによって、実相世界の完全円満な風光が現実化して来るという意味である。
『実相を思う』 ことなしに、人間智 ―― 単なる頭脳智によって、永久平和の世界を来たらしめようと思っても、人間智は、一寸先を予知することのできない黒暗の智慧であるから、善と思ってしたことが、その結果が悪に転ずることが度々あるのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和43年6月号