たゆまない真理の実行を通して、不退転であってのみ、菩提〈さとり〉を成就することができるのであります。 或る人は法供養のほかに、行供養というのを説いておられます。 「行即ち行いの伴わない信仰は空念仏で功徳はない」 と生長の家でも説いているのであります。
人を救う実行〈行〉をすることが、仏様又は神様への報恩であり感謝であります。 自分だけ救われたといって、「ハイ、サヨウナラ。 有難うございました」 と去ってしまうような人は、少しも救われていない。 ただ其の人は利己主義になっただけの事であります。
自分が得をして他に報いないのは一種の 「奪う」 行為であり、それは魔境でありまして、一つの誘惑でありますから、これを克服しなければなりません。 そういう利己主義的な救われ方は、因縁の法則に逆行するものでありますから、 「奪うものは奪われる」 の法則によって、一時はお蔭を得たようになっていましても、やがては其のお蔭が消滅してしまうのであります。
仏の成したまうた其の通りを自分も実行して大慈悲を行なうのが行供養で、これこそが大慈悲であり法供養であります。 更に法供養は、供養されたる衆生が真理を語ってそれを他に及ぼす菩薩たらしめなければならないのであります。 これが 「能く衆生をして道場に坐して法輪を転ぜしむ」 であります。
法輪とは真理の説法のことであります。 生長の家でいうならば、すべての誌友を講師化して法輪を転ぜしめるようにするのが法供養なのであります。 しかし、その転法輪の法供養を 「わたしが彼に法供養してやっている」 という風に恩に着せがましい 「与え方」 をしているのではいけないのであります。 「我なく人なく衆生なく」 というのはそれであります。
「寿命なく」 というのは、寿命は時間でありますから 「何時」 わたしは法供養したということもないのが本当であります。 「わたしはこんなに身命を賭して衆生を教化しているのに、本山では報いようが少ないから生活に困難である。 だからわたしは救ってあげた人たちから謝礼金を貰って生活するのが当然である」 などという布教師があるとしたならば、それは、 「我なく人なく衆生なく」 とは言えないのであります。
施しをしたり、供養をしたり、人を救ったりするのは、 「空・無相・無作・無起」 でなければならないのであります。 すべての人間は既に実相においては救われているのでありますから、現象界にどんなことがあらわれておろうとも、それは空であります。 相をあらわしていながら無相であります。 作(はたらき)をしながら作をしていないのが無作であります。 起っていながら無起すなわち起っていないのであります。 これを反転して申しますと、無相のままで適当な相をあらわし、働くことなくして、適当な働きをあらわし、われが起すということもなく、適当なことが起こり、 任運無作神通自在 になることであります。 これが本当の法供養であります。
人を救けてあげながら、お礼を言われると、 「何時私があなたを救けましたか?」 と忘れてしまっているようなのが作(な)さずして作(な)す、無相の法供養であります。
谷口雅春師 『維摩経解釈』より