産経新聞 8月16日
ノンフィクション作家 門 田 隆 将
政権与党の相次ぐミスによって、安倍内閣の 「支持率低下」 が止まらない。 さすがに大いなる危機感が政権に生じているのも無理からぬところだろう。
与党推薦の参考人の憲法学者が 「安保法制は違憲」 と主張して以来、同法案の潮目はガラリと変わり、「法案反対」 の大合唱が今も続いているのはご承知の通りだ。
しかし私は、一連の報道を見て、果たして新聞はこのままで生き残ることができるのだろうか、と思っている。
というのも、安保法制問題は日本の 「安全保障」 という極めて重要な、そして私たち国民の生存にかかわる大切な問題が論議されるべきはずのものである。 しかし、現実の報道はどうだろう。
毎朝の新聞記事が 「戦争に踏み出す日本」 「これは徴兵制につながる」 と、国民の不安を煽り、思考を停止させる報道に終始している。 わかりやすく言えば、日本の安全保障はどうすべきか、という肝心の議論に至っていないのである。 部数ナンバー1の読売とナンバー2の朝日の記事を比較すると、そのことは明白だ。
朝日の報道では、憲法問題や集団的自衛権行使の是非などに対し、抽象的な主張と感情論が支配している。 しかし、一方の読売では、北朝鮮の核ミサイル開発や、中国の海洋進出を踏まえた 「力による現状変更」 を前提にした 「日本の安全保障問題」 が正面から取り上げられている。
いわば、両紙の立脚点は 「現実」(読売) と 「想像」(朝日) という違いが際立っているのである。 たしかに手続き論や法理論は重要な問題だ。 だが、日本の安全保障をどうすべきか、という肝心要の論点が読者の前から 「消されて」 はならないだろう。 ここのところの朝日紙面で私が注目したのは、佐伯啓思、鈴木幸一両氏による朝日記事を論評したコラムだった。
佐伯氏が 〈野党がもしもこれに反対し、従来の平和憲法のもとで対処できるというのなら、その根拠をしめさなければならないだろう〉 (7月3日付「異論のススメ」) と指摘し、鈴木氏は 〈朝日新聞の報道は、違憲論争と集団的自衛権の範囲や中身の曖昧さに関する指摘に終始して、日本の安全保障をどうしていくのかに関する論議は極めて限られている〉 (8月5日付「わたしの紙面批評」) と批判したのだ。
原点を見失い、不安を煽るだけの記事を容認する人々は、どれほどいるのだろうか。 ファクトと根拠を示して読者に 「判断を委ねる」 のが新聞の本来の使命であったはずだ。
だが、それをしないまま、ただ自己の主張を (感情的に) 展開する ―― 言ってみればこの 「不安商法」 はいつまで通用するのだろうか。 私はそんなことを考えながら、毎朝の紙面を繰(く)っている。