ついに吾々は悟らねばならぬ時に到達するのでございます。
まことの幸福は物質的環境の好転でもなければ、肉体の健康でもない。 それらはただ当り前のことが当り前にあるだけであって、積極的な歓喜を与えるのは魂の喜びであって、物質や肉体の満足のことではなかったのでございます。
真の悦びの源泉はただ霊より来るのでございます。 そして霊の悦びは愛より来るのでございます。 愛せよ、愛の悦びは捧げる悦びでございます。
御利益信心が行き詰るのは捧げる代りに奪い取る悦びであったからでございます。 奪いとる悦びは浅い、そして捧げる悦びは深いのでございます。
奪いとる悦びは地に貯える宝でございます。 どんなに貯蔵してもそれはいつか捨てねばならないのでございます。 キリストはこれを蠢魚食い銹び腐る富だと仰せられました。 そんな蠢魚食い銹び腐るものを追求致しますまい。 尤も自然に集ってくるのを避けるには及ばないのでございます。
天の倉に吾らは宝を貯えることに致したいのでございます。 憐れなる者に対する施し、小さなその日その日の隠れたる行事 ―― すべて眼だたぬ善事こそ尊いのでございます。 これこそ天の倉に貯える富でございます。
谷 口 雅 春 師 『静思集』より