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神想観から立つ“いのち”

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 元住吉神社の社前に坐して祈る時、いつも反省させられるのは、自分にはまだまだ、力みがあることだ。 人類光明化運動、 などと言って力んでしまっては、もう人はついてこられないのである。 自然に、淡々として行じきってゆくところに偉大なる力があるのだ。 それにはやはり 『神想観』 を行じなければならない。

 力むのは相手の欠点をつかむからである。 相手の欠点をつかんで伝道をやっても、神の “いのち” はあらわれない。 伝道とは、人々を拝む行なのである。 理窟をかなぐり捨てて相手の “いのち” を拝みきるのである。 拝みきったとき、自分の “いのち” が相手に伝わって、相手の “いのち” とピタリと一つになるのである。 これが伝道である。

 伝道は生命の礼拝の直接体験である。 伝道にたつと、理窟で人を拝もうなどと考えているのが、かなぐり捨てさられるのである。 だから伝道にたつと謙虚な心になるのである。 そこがどうしても拝まなければならない場であるからだ。

 職場において、本当に職場の人々の “いのち” を拝みきっているか。本当に拝みきっているか、特に思想を異にする職場ではともすれば対立の心がおこりやすい。 だからますます 『神想観』 が大切になってくるのである。

 『神想観』 から立つ “いのち” になって始めて周囲の人々に貴い御教えを納得させることができるのである。 伝道は先ず職場から、家庭から始めなければならないのだ。 

 徒らに法則によって人を批判してはならない。 法則による批判は相対の世界にたつもので厳としていましむべきである。 法則は “いのち” のあらわれんがための自壊する姿なのであって、軽々しく口にすべきものではない。 あくまでもいついつまでも “いの”ち をみつめ、 “いのち” のあらわれんことを祈る、これが 『神想観』 なのである。

 この 『神想観』 を行じきってこそ祖国は救われるのである。 祖国が救われる、とか祖国を救うなどの言葉自体がもう、相対の言葉である。

 祖国の “いのち” を生きるのだ。唯々生きぬいてゆくのだ。

 これからは、いろいろなことが起る。 祖国の内外にいろいろなことがおきてくる。 この中で吾々は 『神想観』 の中から立つ “いのち” を生きて生きて生きにてゆくより他に道はないのである。

 光明化実践行動隊が結成されたが、この隊の根本は、何と言っても “いのちの自覚” 以外にはないのだ。 “いのち” が自覚されたとき自然に行動となってあらわれているのである。

 吾々は今、街頭伝道にたっている。 それは止むに止まれぬ “いのち” の自覚からである。

 今日一日、本当に 『神想観』 を生ききったか。 『神想観』 を行ずるのではない。 『神想観』 を生ききるのである。 行するのはまだ手ぬるいのである。 『生長の家大神』 よ、我れを導きたまえ。 一日一日が真剣なる 『神想観』 だ。




                   福島正俊 『生長の家』誌 40年新年号より

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