『生命の實相』 第5巻 聖霊篇205頁に
「無限の富と申しますのは自分の名義になっている富だけを数えるのは、本当の富ではないのであります。 自分の名義になっている富だけを言うならば、百億万円の金持でも有限の金持であって無限の富ではないのです。 また現在必要もないのに自分の懐中に百億万円もあっては、その富は重いばかりで自分の自由を縛るばかりである。
本当の無限の富とは必要なだけ、滾々と井戸の水を汲んでも汲んでも尽きないように、いくら使っても使っても必要に応じて無限に湧き出て来るのが本当の吾々の自由を縛らない自由無限を展開するための無限の富であるのです。」
この「無限の富」というものを、よく理解していないと生長の家の「無限供給」の本当の意味がわかりません。
「欲するもの、好ましきもの、おのずから集りきたり、欲せざるもの、好ましからざるもの、おのずから去る」
如意宝珠観のこの一節が心の底から理解されますと、実に楽しい、明るい、嬉しい生活ができます。
なんでもかんでも自分の名義でみんな持っているのが「無限の富」だと思うと、富を持ちながら自由を失った悩みの生活になってしまいます。
次の頁に 「本当の無限の富の所有者は使っても減らないで、打出の小槌のようにまた出て来る」 と説かれています。 「神の子」である私たちはすべて 「富の本源」 である神の子なのである、ということを、まず根本的に理解しなければなりません。
徳 久 克 己 「『生命の實相』教室」より
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』
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