神は愛である。
愛するとは欲望することではないのである。 欲望するのは愛欲である。 真の愛は与えるところの愛であって、欲望することではないのである。 神はただ吾々に与えることのみを実践しておられるのであって、何一つ吾々よりは与えられようとはしておられないのである。 これこそが真の愛であるのである。
自己の神性を自覚するところの神想観に於て、只神より無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限供給が流れ入るのみ念じて、自己が欲望の塊となっている有様をみつめるが如きは真の神想観ではないのである。 自己が神であるところの実相を観ずるのは、自己が如何に多くの人に与えているかの実相を観じなければならないのである。
『わが全身神の生命にみたされて光明燦然と輝く』 と念ずるのは、自己が威張らんが為に光明燦然と輝いているのではないのであって、その光がすべての生きとし生けるものを光被しすべてのものを愛し恵み、光を与えるために輝いているのである。 その積りですべて生きとし生けるものに光与うる自覚に於て自己の全身が光明燦然と輝くのを凝視するのが神想観である。
ここにも 『与えれば与える程ふえる』 の法則が行なわれているのである。 親は子供を愛する、その愛の反映として子供は親を愛するのである。 親がもし子供を老後に養って貰いたいために貯蓄をして置くつもりで世話するならば、それは真に与える愛ではないから、子供の方も親を本当に愛することはないであろう。 又子供が親を単に物質的供給をしてくれる世話人であるとのみ思っているならば、親の方も子供を真に深い愛情をもって愛することはできないであろう。
すべて蒔いた種類の種が刈りとられるのである。 蒔かぬ種は生えぬのである。 これが心の法則である。 もし諸君が神の愛を受けようと思うならば、神の愛と同じき 『無我の愛』 を諸君の隣人に対して与えなければならないのである。 斯くの如くすることによって諸君は神から又無我愛を受けとることができるであろう。
愛は単に心で愛しているという丈では足りないのである。 愛は実践を要求する。 愛は相手をよろこばす所の何か行為によって裏づけられなければならないのである。 もし実践的行為に於て他を喜ばす何事をもなさないでいて、 『自分は人類を愛する』 等という人があるならばその人は大インチキである。
しかし絶対安静の病人以外の人は誰でも日々何かの行為をするのである。 だから、その行為を愛の方向にふりむけるならば、誰でも愛行を実践することができるのである。 御飯を食べるにしてもただそれを利己的に食べないで 『この食を受くるによりて神の生命がわが生命となり吾を通して神の愛が実現致しますように』 と祈りながら食するならばその食事が直ちに愛の実践に変わるのである。
何事をなすにも、この仕事を通して人類を愛し給う所の神の愛が実現いたしますように念ずるならば、それはただの利己的祈りではなく、人類を愛する神の愛の媒介となる行為である。 『神は常に吾が仕事を通して人類を祝福し給う』 と念じながら仕事をなすならば神の全智全能の波長と一つになるが故にその仕事は完全に行なわれ同時に自己及び他を害するが如き故障がおこることがなくなるのである。
まず神を愛することである。 そして神と自己同一することによって、すべての人類を愛する、のである。 『神の愛自分に流れ入って自分の愛を通して神が人類を愛し給うているのである』 かく念ずることが自己自身を祝福することになるとともに全人類を祝福することにもなるのである。 『与えれば与えるほど与えられる』 のが心の法則であるから、吾々は愛を他に対して流し出すことに努めなければならないのである。
世界に対して何か貢献するということは何か偉大な仕事をしなければならないように思ったり、何かすばらしい機会が見つかったならば、その時に人類のために働こうなどと考える人があるかもしれないけれども、愛は今すぐ手近に実践すべく待っているのである。 深切なことを今実行するそれが如何に小事であろうともそこに神の愛が実現するのである。
毎日毎日時々刻々、一挙手一投足 『われは今ここに神の愛を実現しつつある』 と念じてすべてのことを為せ、 やがてすばらしいことが実現してくるであろう。 毎日蓄積されるところの愛の念波が、次第次第と雪達磨の如く巨大となって、凡ゆるよきものを世界からひきつけることができるようになるのである。
吉田 國太郎 『白鳩』誌 24年新年号より
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』