生長の家の神様は罰を与えないけれども、自分自身で自己処罰して罰を当てるのです。
人間は「肉体」ではないのですから、霊であったら、普遍的な存在であり、自他一体でありますから、他を生かすようにしていれば自分が生きて来るようになるのです。 他を生かすことを止めて利己的になり、互いの恩愛を遮断するようになると、大生命の流れがそのままに現象化しないで病気があらわれます。
「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら自然に他の人にもその真理を伝えたくなるのです。 他に伝えたくならないようだったら「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。
『報恩行に就いての神示』にありますように、吾々は、神様の真理を知らしてもらう機縁を与えて下さった橋架けになった人 ―― 真理と縁を結んでもらった人に対して、その恩というものを忘れてはならないのです。
生長の家の誌友は生長の家という縁を通して、神様を知らしていただいたのでありますから、「もう真理を知ったから、私は神様と直通だ。 もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、其の生命を断ち切る心の反映として、現象界に病気その他の不幸があらわれて来るのです。
生長の家の教えは簡単ですから、もう知ったら止めようと思ったらいつでも止められるけれども、知るという事と体得するという事とは違う。 生長の家の真理の書物は非常に沢山ある。 他のどの宗教にも無いくらいに沢山あるけれども、簡単に言えば縦の真理は“人間・神の子”ということであり、横の真理は“環境も肉体も吾が心の影”ということで、縦と横との二つの真理で、それでおしまいだ。
「それで分った。はい、さようなら。人間は神の子だから自分は神の子で神様は親だから『子』と『親』とこれから直通だ」 という訳で、相愛会へも教化部へも道場へも往かぬ。 そして「わしはわしで独立独歩の神様の子だ」と考える人もあるけれども、それはやっぱり間違っているのであります。 それは人間というものが、神様とのみ直通していると考えて、神の子の相互関係による孤立した存在ではないというところの真理を忘れてしまっているのであります。
人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、全体とのつながりに於て生かされているのであるということが神の子の自覚であるということを忘れてしまって、自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、そういう間違った考えを起すことになるのであります。
臨済宗方広寺派の管長柴山老師が大分市の関川晃代さんに言われた言葉に 「あんたは、生長の家によって真理を悟らしてもらったんだから、ほかの宗教によろめいて行ってはいけませんよ。 信仰にも貞操がなければならない」 というのがありますが、まことに、そうであります。
「万教は唯一つの真理に帰するから、何処へよろめいて行っても同じじゃないですか」 という理窟づけをして他の宗教をのぞいてくる人がありますが、これは自分の神性をひらかして頂いた「因」に対する純潔を欠いているので、なんぼう偉そうに道をといてもいけないのです。
嘗て講談社の校正係をしとった人で、人を怨み憎んで殺してやりたい位だったその怨みが、生長の家の神示を実行して、消えた。 そして今は清々しい気持になれた。 その怨みが消える方法を教えてもらったのは生長の家のお蔭であるというので、毎年二、三遍は必ず、私にお礼の手紙をよこす人がありますが、そういう人は、本当に因縁の理を知り、恩を忘れない立派な人だと言わなければなりません。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和33年5月号