産経WEST 2014.8.2 07:00 【河村直哉の国論】
この間の国際情勢の激変と、国内での集団的自衛権をめぐる議論を見ていて、二重の歯がゆさを覚えざるをえないでいる。
相も変わらず集団的自衛権反対の大合唱を垂れ流す日本の左傾メディアの能天気ぶりに対しては、歯がゆいというよりもはやあきれるほかはない。 ここにもう1つのもどかしさが加わる。 集団的自衛権の議論は本来、憲法改正論と分かたず行われるべきなのに、改憲論は後退してしまっている。 これでは行使容認も、アメリカへの従属論で終わってしまいかねない。
■左傾メディアは桃源郷の仙人もどき
ウクライナ、そしてガザと、惨事が途切れることなく伝えられてくる。 ミサイルを繰り返し発射する北朝鮮、あからさまに海洋覇権を目指す中国の脅威は言わずもがなだ。
世界秩序が大きく組み替えられようとしているこの時代に、 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」 し戦力の保持を認めないわが憲法を置くと、その異様さはいやでも浮き立ってくる。 それは彼岸の理念を述べてはいる。 しかし彼岸の理念にすぎないのである。
集団的自衛権の行使にヒステリックに反対を続ける日本の左傾メディアは桃源郷の仙人もどきなのであって、この国の住民ではない。 これについてはこれまでも述べてきたので、ここでこれ以上は触れない。
本論に入る。 戦後の空想的な一国平和主義から一歩を踏み出す集団的自衛権の行使は、脅威が日ごとに募るなかで国益にかなっている。 その点で筆者は行使容認の閣議決定を評価する。 そのうえでいうが、なぜ閣議決定も、さきの国会の集中審議での首相答弁も、憲法改正の必要性に踏み込まないのか。
「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある」 (閣議決定)。 「憲法9条の解釈の基本的な論理を変更することはない」 (首相答弁)。
しかし繰り返すが現行憲法が現実と大きくかけ離れたものであることは、だれでもわかる。 この憲法を掲げながら戦力を 「自衛隊」 といいくるめて保有し、かつアメリカの抑止力にべったりと依存してきたことが、戦後日本の欺瞞 (ぎまん) なのである。
そこに独立自尊の精神はない。 自国の独立を他国に依存してなんとも思わない国は、真の独立からは遠いといわねばならない。 またこの憲法を変えない限り、集団的自衛権に関して反対派が繰り返したような、どこまでが自衛か、歯止めはどこにあるのか、といった些末 (さまつ) な議論が続く。
■アメリカ追従は戦後欺瞞の上塗り
一国のみで十全に自国を守るなど、現代世界では難しい。 だからさまざまな同盟や軍事協力がある。 だがそれは独立国たらんという構えを取った上での同盟なり協力であるべきなのだ。
すべてではないにせよ、集団的自衛権の行使で想定されている多くの局面はアメリカがらみである。 攻撃を受けている米艦の防護、アメリカに向けて日本の上空を飛ぶ弾道ミサイルの迎撃など。 確かに現段階で、日米同盟が重要であることは筆者も認める。 しかし独立国たる気構えなくしていくら集団的自衛権の話を進めても、それはとどのつまり、 「アメリカに尽くします」 に集約されてしまう。
これでは戦後日本の欺瞞の、単なる上塗りになってしまいかねない。 欺瞞の源流である憲法を変え軍隊を認めるという議論が、アメリカを念頭に置いた集団的自衛権の議論では不可欠なのだ。
さらにいえばその現行憲法とは終戦直後、 「戦争は放棄される」 などとしたマッカーサー三原則に基づき、連合国軍総司令部 (GHQ) のスタッフ20余人が1週間ほどで作ったものが原型である。 アメリカに与えられた憲法を後生大事にし、解釈変更にすら世論のごうごうたる反対が起こるというこの国の構図は、骨の髄から悲しい。 だが集団的自衛権の行使がとどのつまりはアメリカに仕えるだけの話に終わるのであれば、同じく悲しい。
■「日本を取り戻す」とは
お前がいっていることは集団的自衛権の行使容認に反対する左派の言い分と同じだ、といわれるかもしれない。 確かに左派は、行使を容認するなら憲法解釈の変更ではなく憲法を変えよ、といっている。
「集団的自衛権が日本の防衛に欠かせないというのなら、首相は (略) 理を尽くして国民を説得すべきだ。 そのうえで憲法96条に定めた改憲手続きに沿って、国民の承認を得る。 この合意形成のプロセスをへなければ、歴史の審判にはとても耐えられまい」 (6月20日朝日新聞社説)
だが朝日、毎日をはじめとする左傾メディアが、護憲派の旗振り役なのは周知の通り。社説ではこう書きながら、憲法改正を訴えるつもりなどさらさらないのだ。 昨年の特定秘密保護法、それに今回の集団的自衛権などで左傾メディアが展開したおどろおどろしい反対キャンペーンによって、世論調査で憲法改正に反対する数字が高まっている。 解釈を変えるなら憲法を変えよ、どうせ変えることはできない、と、ためにするのが左派のやり口である。
保守派の論客が早くから指摘しているように、 「憲法」 を表すコンスティテューションという語は組織、構造、体格といった意味を持つ。 憲法は国の形、国の体 (てい) とも解されるべきなのだ。 アメリカに与えられた現行憲法が国の体を表すとはとうていいえない。 憲法改正の主張なき集団的自衛権の議論は、アメリカによって作られた日本の戦後体制を脱するどころか、ますますその体制を強化することになりかねまい。
自民党は、平成24年衆院選、25年参院選と公約で憲法改正を掲げている。 集団的自衛権の行使容認に関しても、改憲にもっと触れるのが誠実さというものである。 それが、日本を取り戻すということだ。 左派の雑音など、長い目で見ればあぶくのようなものと思っておけばよい。 そんなものに構わず、日本人として毅然とした姿勢を貫いていくべきなのである。 (大阪正論室長)