周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。 私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。 しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されてはならないのである。
色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。 それらは全面的に排斥してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。 採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、神想観によって実相のひびきを直感し、そのひびきに従って、みずからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければならないのである。
神想観なるかな。 神想観なるかな。
神想観によって実相のひびきを直感し、実相のひびきに融会合一するとき、吾々は周囲の何ものにも煩わされることがなくなるのである。 私たちは神想観を実修するのに特別の静寂なる環境を必要とすることはないのである。 それは心の問題である。
喧噪な環境に於いて神想観を実修するときには、それは人や機械や乗物が騒ぐと思わず、それは天人が天鼓を撃って天楽を奏するのだと観じて神想観するがよい。 少しも周囲の喧噪がさわりにならないで、神想観の妙境に入ることができるのである。
神想観の妙境に入り、神との一体感を得るとき、死せずとも死せざる永遠の生命を自覚することができるのである。
神想観を毎日怠らず実修することによって私たちは、それだけ “久遠不死の世界“ “永遠のいのちの世界” に融合する程度を増すことができるのである。 そして“永遠のいのちの世界” に融合する程度に従って、私たちは其処からいのちの泉を汲出して来ることができるのである。
自分の抱えている問題に対して、実相の “いのちの泉” から汲み出して来た叡智の一滴を加えるならば今までの問題の硬結もおのずから溶け去って、難なく問題を解決することができるのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 43年10月号より
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』