産経新聞 【日の蔭りの中で】 2014.7.21 03:15
京都大学教授 ・ 佐 伯 啓 思
戦後日本は、民主主義と平和主義を高く掲げ、この2つの主義を両輪にしてきた。 その結果、多くの者にとっては、民主主義イコール平和主義とみなされた。 民主主義者は平和主義者でなければならなかった。 両者とも 「主義」 であるからには思想的な立場の表明であり、その反対の立場もありうるだろう。 しかし、わざわざ反民主主義を宣言する者などめったにいないし、戦争主義などを訴える者もいないので、誰もが、積極的か消極的かは別として、民主主義者であり平和主義者である。
にもかかわらず、戦後日本の民主主義と平和主義の組み合わせが、どうもうさん臭いのは、この平和主義がもっぱら 憲法9条の武力放棄 を意味しているからにほかならない。 平和愛好、構築なら誰も批判もしないだろうが、問題はその方法なのである。 憲法9条といういささか特異な形態における平和主義という 「方法」 が問題なのである。
もっとも、いわゆる護憲派の平和主義者からすれば、憲法9条に示された平和主義こそが理想的理念だということになる。 とすれば、その途端にまたうさん臭さが露呈してくる。 それは、日米安保体制の存在である。 平和主義を掲げながら米軍を駐留させ、他国との交戦になれば、米軍を頼みにするというこの欺瞞(ぎまん)である。 交戦とまではいかなくとも、少なくとも、戦争の抑止を米軍に依存していることは間違いない。
憲法を前提とすれば、こういう形にならざるをえない。 しかしそれを平和主義といって、何やら就職活動の履歴書のように、いかにも温厚、誠実、穏健を演出しても、その背後にあるものを想起すれば、欺瞞的というほかない。
実は、民主主義はイコール平和主義ではないのである。 たとえば、戦後日本で民主主義の手本とみなされたジャンジャック・ルソーは、決してそんなことはいっていない。 それどころか、統治者が国のために死ねといえば、市民は進んで死ななければならない、と明瞭に書いている。 言い方は少々どぎついが、端的にいえばそういうことになるのであって、それが西欧政治思想の根本なのである。
どうしてかというと、近代国家は主権によって動かされる。 そして、主権者の役割は何よりまず国民の生命財産を守ることとされる。 とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命財産を守らなければならない。 そして主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らなければならない。 これが道理というものであろう。 とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。 もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。 しかし 「理念」 としてはそうなる。
こうしたいささか面倒なことを書いてきたのは集団的自衛権にかかわる論議において、この種の原則論がまったく確認されていないことに危惧をおぼえるからである。 技術的・法的な手続き論も必要だが、本当に重要なのは 「誰が国を守るのか」 という原則論にこそあるのではなかろうか