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国を守る備えはまず「抑止」のためにある

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 安倍首相による集団的自衛権解釈見直しに向けた検討表明がなされるや、またしても一部新聞には、「近づく 戦争できる国」 だの 「『戦地に国民』へ道」 だのというオドロオドロしい見出しが踊った。

 こんなレベルの低い新聞は笑い飛ばすに限る、というのが筆者の率直な思いだが、この集団的自衛権見直しを何としても、と考える安倍首相としては、そうもいってはおれないのだろう。 昨年のあの特定秘密保護法案の場合には、こういった扇動報道で、あれよあれよと思う間に10%も支持率が下がってしまったからである。

 そこで絵入りのパネルも使っての首相自らの記者会見となったわけだが、この連中は何をいっても 「ああいえば、こういう」 式に、ただ話をねじ曲げるだけで、所詮まともに説いてわかる相手ではないと改めて思った。 首相の説明を聞く前から 「定型の質問」 を用意していたと思われる記者すらいたからである。

 そんな中で、改めて以下のようなことも思った。

 それはどんな筋の通った議論でも、やはり 「戦争」 や 「武力行使」 を前提とするような話し方をすれば、彼らは 「待っていました」 とばかりに、そこに一気につけ込んでくるということだ。 「攻撃があった場合」 とか 「ともに戦うことを求められた場合」 というようなケースを口にした瞬間、 「だから危険だ、恐ろしい」 という話にもっていくのである。

 そこで、むしろこういったらどうだろう、と思った次第だ。

 われわれは集団的自衛権を行使しなければならないような事態は、絶対に避けなければならないと思っている。 であるがゆえに、そのために必要な 「万全な備え」 をしようと思っているのだ――と。

 そんな 「抑止」 理論は聞き飽きたという論者はいるかも知れないが、やはり国を守る備えは 「行使」 ではなく、まず 「抑止」 のためにある、と言い続けることが、かかる一部新聞の扇動から、心ある国民を守る道だと思うのだ。 その意味では、集団的自衛権の議論はいわば 「行使」 の話ではなく、そのような事態を避けるための 「備え」 を万全にするための 「訓練」 や、日常的な 「警戒・監視」 のために必要な議論としてまず提起する、というやり方はどうか。

 今の憲法解釈のままでは、それをやろうとすると、前にも東シナ海での米軍機護衛のケースとしても紹介したように、憲法で禁止されている集団的自衛権行使を前提とする行為ではないか、という話になり、 「それはできない」 ということになってしまう。 だから、それでは余りにも不都合ではないか、という議論にもっていくということだ。

 それでは甘い、といわれるかも知れないが、集団的自衛権を行使しなければならない事態というものはそう簡単に起こるものではない。 だから、そのようなケースの話をしても平和ボケの国民にはリアリティーをもって受け取られないともいえる。 とすれば、日常的に充分あり得て、しかも喫緊に必要なケースで説く必要があるということだ。

 むろん、こういっても、一部新聞は相変わらず 「ああいえば、こういう」 式の議論を仕掛けてくるだろう。しかし、問題は彼らの議論ではない。 心ある国民を納得せしめることなのだ。 そう考えれば、 「戦争」 だの 「武力行使」 だのという言葉にそれだけでアレルギーを起こす国民に対しては、そのような事態をもたらさないための 「行使」 以前の、日常の 「備え」 に関わる議論だとの説明は、考えてみる価値はあると思うのだ。

 こんなことを今更いっても遅いかも知れないが……。   

                (日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)
       〈ChannelAJER プレミアムメールマガジン 平成26年5月23日付より転載〉

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