一切は神の想念によって創造られたものであります。 神以外に創造主はないのであります。 神の想念には不浄なもの不完全なもの不健全なものは存在しないのでありますから、神につくられたる一切は、すべて浄らかなるもの、完全なるもの、健全なるものであるほかはないのであります。 だから真に実在するものは浄らかであり、完全であり、健全でありますから、人間もまたすべて浄らかであり、完全であり、健全であるのであります。
病気、不幸、災難、その他不健全なる一切のものは、 『すべては神の霊的想念の具象化』 であると言う真理をわすれた人間の妄想の産物に過ぎないのであります。 吾々は時として暗黒を真に実在するが如く感ずるものでありますが、暗と言うものは、真に存在するものではなくて 『光の非在』 と言う状態に過ぎないのと同じ様に、吾々は時として 『不幸』 や 『病気』 を真に実在するが如く妄想するのでありますが、それは真に存在するものではなく、 『実相を自覚しない』〈実在に目を瞑じている〉 と言う消極的状態に過ぎないのであります。
罪とは実に 『包み』 と語源を同じうするものでありまして、実在の実相に眼を瞑じ、包み蔽いくらましてしる状態に過ぎないのであります。 罪とは実在にあらずして ‘状態’ であり、しかも自己の実相を ‘隠覆せる状態’ なのであります。 ‘状態’ は固定したものでありませんから、罪を消すには唯、目を覚ましさえすれば好いのであります。 即ち、実在の実相を自覚すれば好いのであります。
これを観普賢菩薩行法経には、 『懺悔せんと欲せば端坐して実相を観ぜよ。 衆罪は霜露の如し、慧日よく消除す』 と説かれているのであります。 即ち、心の眼をひらいて実相覚によって、存在の実相を観、自己の本体の実相の至美至妙完全円満なることを観ることによって、一切の仮相〈みせかけ〉の不完全な状態は影をひそめてしまうのであります。
暗黒を消すには、唯、光明を点ずるだけでよい。 それと同じように一切の不幸と病気とを消すには、唯、実相を観じて、深くそれを自覚すればよいのであります。 しかし自覚は自覚と共に動き出す自然法爾の動作があるのでありまして、それを惰けたり拒んだりしてはならないのであります。 覚行ともに円満完全となる時、万事が整うのであります。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和26年5月号 巻頭言