宿命というものは、神が与えたものではないのである。 それは生れ変りの 「前世代」〈複数〉 に自分が “心” と “行い” と “言葉” とで積み重ねて来た業の最後の “決算表” みたいなものである。 その決算表を帳尻として、新年度を迎えたのが、我らの此の世への誕生である。
自分でつくった帳尻だから、それは自分が責任をもって背負わねばならないが、前年度に赤字つづきの会社でも、新年度に入って、社長の経営方針が変ると、隆々としてその会社が栄えることもあるのと同じように、宿命と見えるようなその人の運命も、今世の心の持ち方と、実生活それ自体の経営如何によって、どうにでも運命を改善する 「自由」 が人間には与えられているのだから、宿命も宿命ではないのである。
しかしその運命の改善には “神の子” の自覚を深め、神の叡智にどれだけ自分の心の波長が合って、 「神の心」 をそのままに自分の生活を営むことが大切である。 それには矢張り神想観を励むことが必要である。
「宿命と闘う」 というような “構える心” は必要ではない。 相手を敵と見とめて心を構えるならば、相手は一層自分を害する力を強めることになるのである。
“宿命” というものは外部から自分の運命を規制するが如くやって来るようだけれども、それは恰も癌細胞が何処か外から人体を害するものが侵入して暴れ出したかの如く見えても、実は外から来るのではなく、自分自身の体細胞が変形して癌細胞となりつつ増殖しつつあるのと同じように、宿業というものは、自分自身の善業・悪業の総結果として、生れ変りの前世代の総決算としてあらわれて来ようとしているのだから、それは 「敵」 ではなく、自分の積み立てておいた業果であるのだ。
だから、それが形にあらわれたら、見えざる世界に積まれた借金が、形にあらわれて返済されつつあるようなものだから、寧ろ 「ありがとうございます。 これで過去に借金した業が、形にあらわれて返済されたのであるから、これからは善いことばかり現れてまいります」 と感謝合掌するがよい。
こうして心を明るい方に転ずることによって、たとい暗い宿業が過去から積まれていても、それを明るい方向に転ずることが出来るのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和47年2月号