善意も深切も愛念も、それは人生に咲いた美しい花である。 しかしそれは凋み易い可憐な花である。 それは実行に移さなかったら、果(み)を結ばないで散ってしまう花である。
しかも、それを実行に移しても善き果を結ばないで却って誤解を招くことがある。 歴史を繙いてみても、善意の人間が逆遇せられ、困難に遭遇し倒れてしまった実例は沢山ある。 それは、何処で何を如何に誰になすべきかの四相応が得られなかった結果である。 この四つの適行が出来るためには神の叡智を頂かねばならぬのである。 そのためには 『神想観』 を怠らぬことである。
善意をもって、その実行中に倒れてしまった人と、善意をもたずに利己一点張りで、大いに栄えた人との魂の価値はどちらが高いであろうか。 現実的世界に於ける評価は後者の方が時には高いことがある。 併しその人が現象世界を去って、魂が霊界に往った後の評価は、現象界とは異る霊界に於ける価値判断の基準がある。 そこは “霊” の世界であるから、物質的成功は、評価の基準にならないのである。
彼が如何に善意をもち、彼が如何に人間及び生物を愛し、彼が如何にそれを実践しようとして忍耐づよく意志の努力をつくしたかが基準になるのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和47年2月号