産経新聞 [一筆多論] 4月12日
違和感が拭えない。
「歯止め」「限定容認」「必要最小限」 ・・・。 集団的自衛権の行使容認をめぐり、抑制的、消極的な言葉が並べ立てられている。 政府与党の要人や有識者らの発言だ。
国の防衛、安全保障を論じるときに、後ろ向きの言葉がこれほど飛び交う国は、世界広しといえども日本だけだろう。
自らに手枷(かせ)足枷をはめれば平和がやってくるという不可思議な 「戦後平和主義」 の呪縛が、依然強いことがわかる。 発言者の多くが、行使容認が日本のためになると信じている人々であるだけに、かえって深刻である。
公明党を説得しなければ連立が崩れるという政治的現実ゆえに、こういった言葉が出てくる面はあるのだろう。
しかし、後ろ向きの言葉を多用するほど、議論は本来とるべき方策よりも、自衛隊の行動や安全保障政策を縛る方向へ流れる。 国民もそれに慣れてしまう。 せっかくの安全保障改革が中途半端になる弊害は大きい。
どこまで集団的自衛権を行使するかは、なるべく制約を設けず、民主的に選ばれた政府と国会が、その都度事情を勘案して、柔軟に決めるようにした方がいい。
志方俊之帝京大教授は、4月10日付本紙の正論欄へ 『サイバー戦勝利が抑止への道だ』 を寄稿した。 普通の国なら、志方氏のように 『勝利』 についてまず論じる。
集団的自衛権の行使をめぐって、 『勝利』 するための議論はほとんど見られない。 日本の政治家には国を守る強い意志、ガッツに相変わらず欠けると、諸外国はみなすのではないか。
いくら安全保障法制の整備を進めても、意志が弱いとみなされれば、それだけ抑止力が減じて、危機の可能性が増す。
不倶(ふぐ)戴天の敵ソ連と対峙(たいじ)していた冷戦期の米国であれば、日本が集団的自衛権の行使を封印するような 「仲間を守らない国」 であっても、ソ連の攻撃から日本を防衛したであろう。
今は事情が異なる。 中国に対し、米国が断固たる姿勢をとり続けることは、決まっていない。 オバマ大統領やヘーゲル国防長官は最近、中国側に日本防衛の義務を履行すると伝えたが、日本としては安心はできない。
中国の挑発に備えたり、中東からの海上交通路(シーレーン)の安全を確保するため、日本は、米国を 「巻き込む」 努力をしなければならなくなっている。 集団的自衛権の行使容認は、その努力の重要な一環だ。
自民党の石破茂幹事長は5日、民放テレビの番組で、 『徹底したリアリズムに基づく外交安全保障』 と書いたフリップボードを示しつつ、次のように語った。
『法律をきちんと作る。 (自衛隊の)装備を整える。 きちんとそれを運用する。 そうでないと平和と安定は保てない』
さすがに石破氏はよく分かっている。 いかにもその通りだが、政治家が国を守る決意をしっかりと示すことが前提条件である。 その第一歩は、抑制の利きすぎた言葉遣いを 「世界の民主主義国の標準」 に近づけることではないのか。
榊原 智 論説委員
榊原 智 論説委員