東海大学教授・山 田 吉 彦
ロシアによるクリミア半島の併合を、新たな南下政策の一環という観点から捉えてみたい。
《ガス販路脅かすキエフ政変》
ロシア経済は世界一、二の産出高を誇る原油と天然ガスの輸出に支えられている。 その経済の生命線に大きな脅威が立ちはだかろうとしている。 米国のシェールガス革命である。シェールガスの登場が既存の石油・天然ガス価格決定メカニズムを崩し、ロシアにも打撃となるのは必至である。
そうした中で、2月のウクライナ政変で親露派政権が崩壊し親欧米の暫定政権がキエフで発足し、ロシア経済の命綱である天然ガスの販路を脅かしかねない状況が生まれた。 ロシアから欧州へ売却される天然ガスの40%は、ウクライナを通るパイプラインを経由して運ばれている。 ロシアとしては速やかに代替輸送路を確保し、安定輸送が危ぶまれる事態を何としても阻まなければならない。
それには、海上輸送路が重要となり、黒海の港湾拠点でロシア黒海艦隊の基地もあるクリミアのセヴァストポリ港の安定維持が不可欠である。 同港は、ウクライナも海軍司令部を置いてきており、そこを押さえておくことは黒海の制海権掌握につながるのだ。
近年、ロシアにとって海洋拠点の確保は厳しさを増している。 例えば、バルト海につながる露海軍の要衝カリーニングラードは飛び地であり、ロシア本土との間を結ぶにはリトアニアを経由する必要がある。 にもかかわらず、リトアニアをはじめバルト三国は2004年に、北大西洋条約機構(NATO) と欧州連合(EU) に加盟しロシアの影響下を脱した。
《不凍港で黒海制海権を掌握》
プーチン露政権によるクリミア併合の背景として、黒海の不凍港死守という要素は大きい。
振り返れば、ロシアは18世紀以降、国力を強化すべく海外に目を向け、南下政策を展開してきた。 ロシアの多くの港は冬の間、氷に閉ざされる。年間を通じて凍らない不凍港を手に入れることによって、西欧諸国のような海外権益の獲得を目指したのである。
ロシアが、択捉島-ウルップ島間に日本との国境線を引いた1855年の日露通好条約を例に、その辺の事情を見てみよう。
国境線画定交渉のロシア側の拠(よ)り所は、53年にロシア皇帝ニコライ1世が交渉役のプチャーチン提督に対して発した、 「クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と述べて構わない」 という訓令である。
その当時のロシアはオスマン帝国、英国、フランスと敵対し、黒海を舞台とするクリミア戦争に突入していた。 戦争に至る過程で、黒海やバルト海のほかに外に出て行ける玄関口を求めて、日本との間に国境線を画定し、友好関係を築こうとしたのである。訓令には 「通商上の利益の達成こそが、われわれにとり真の重要性を持つ」 と記され、国境画定の目的が経済によって国力を充実させる点にあったことが示されている。
現下のクリミア情勢では、エネルギー需給をめぐる相互依存度が高いロシアと欧州諸国はいずれ互いに譲歩することになるだろう。 しかし、これは抜本的な問題解決にはならないから、長期的には、欧州諸国は過度なロシア・エネルギー頼みを避ける方向に進むことが確実だ。 となれば、ロシアはエネルギー資源の新たな販路を求めて、さらに南下政策を進めなければならなくなるのである。
《日本の販路開拓で欧州補完》
その場合、ロシアの新南下政策が向かう先として考えられるのが日本である。 欧州向けの天然ガス輸送の不安定化を補完しロシア経済を支えるため、サハリンをはじめとする極東で産出する天然ガスを、日本に安定的に売却することを目的に据えるだろう。 極東ロシアと太平洋を結ぶ輸送路には、日本列島と千島列島、北方領土が存在するため、北方領土海域の安全保障にも言及してこよう。
そして、ロシアは、取引材料として北方領土問題の進展をちらつかせてくるに違いない。 ただし、あくまでクリミア半島の問題と、日露経済協力や北方領土問題とは切り離し、北方領土は所詮、疑似餌に使われるだけだろう。
北方領土返還は、わが国の主権がかかる問題であり、究極的には日本人としての尊厳を取り戻すことである。 ロシアが誘う取引に安易に乗り、領土返還の本質的な目的を失うことになってしまっては元も子もない。第一、クリミア併合は 「力による現状変更」 にほかならず、中国が同様に尖閣諸島や南シナ海を脅かしている現在、悪(あ)しき前例となりかねない。
日本政府は、クリミア問題をロシア新南下政策の一環であるととらえ、さらには太平洋海域進出の前兆である可能性を考えて、対策を練っておくべきだろう。
そのためには、些細(ささい)な動きも見落とさず腰を据えた外交が日本の指導者には求められる。北はロシア、南は中国に対処するため、海上警備力の充実を怠ってはならないことは言うまでもない。