神は、人間が傲慢になることをきらい給うのである。 だから、イエスは “山上の垂訓” の冒頭に、 「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。 幸福なるかば、悲しむ者、その人は慰められん。 幸福なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん」 と教えられているのである。
“心の貧しき者” とは、所謂る進歩的文化人のように頭脳的知識だけで、傲慢不遜に “自分の考え” だけが正しいと思い上っている人とは概そ反対の人である。
生長の家では 「喜べ、明るく笑え」 と言うけれども、その 「喜びと明るさ」 とは一度 「肉体人間」 としての弱さに気付いて、それを悲しみ歎き、神を求めて 「悲しみの奥にある聖地」 に達した 「喜びと明るさ」 でなければならない。 むしろ私達は “神の祝福を受け得るに足る 「謙遜な心」 「柔和な心」 を与えたまえ” と祈るべきである。
“謙遜な心” とは “そのまま受ける心” である。 “そのまま受ける心” なくしては、既にある 「神の恵み」 も其のまま受けることができない。 神の恵みは無限であるが自分が受けた程度だけ “自分のもの” となる。 “無限の可能性” をもちながら、しかも有限なのはその理由である。 私たちは 「人間・神の子・無限力・何でも出来る」 と傲慢になるまでに、神の訓えを素直に実践するよう努力しなければならない。 「神よ、神よと言う者、必ずしも天国に入るに非ず」 とイエスは教えられたが、更にまた 「汝らわれを愛せば、わが誡めを守るべきなり」 とも教えていられる。 神の教えを守ろうとする努力こそ 「神への愛」 の表現であり、それこそが本当の祈りである。
“山上の垂訓” は私達が 「柔和である」 ことの次に 「義(ただしき)に飢え渇く者」 であることを訓えていられる。 “義しい” と思うことには飢え渇くが如く勇敢に実行すべきである。 釈尊は彼岸に達する六つの聖道 〈六波羅蜜〉 として 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若 を訓えられたが、イエスは 「幸福なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり。 我がために、人なんじを罵り、また責め、詐りて各様の悪しきことを言うときは汝らの幸福なり。 喜べ喜べ、天にて汝らの報いは大なり」 と訓えていられるのである。
これは、仏教で謂えば 「忍辱」 と 「精進」 の誡めである。 どんなに罵られても、様々な悪評をたてられても憤慨したり、腹を立てたりしないで、義しいと思うことを勇猛に精進努力して、いくら責められても喜び喜んで、勇敢に義しいと思うことを実践する ―― これが “本当の祈り” なのである。
口先だけで、神様にオベッカを言うような祈りをしても神の誡えを実行しないようなものは、口先だけが神と波長が合っても、実際に全生命が神と波長が合わないから、祈りが実現しないことになるのである。 常に努力して慈愛の心を起してそれを実践せよ。 心と行いとが潔くなる事を心懸けよ。 人類の危機に際して人類を救うために、光明思想を宣布することは、人類を愛し、憐憫を実践する者である。未だ一人も光明思想に導いて救ったことのない者が、 「神よ、われを憐れみたまえ。 この何々を成就せしめ給え」 と祈っても、恐らくその人は、神の慈愛を受けることができないであろう。
何故ならその人は、自分が隣人に対して慈愛を実践していないから、 「神の慈愛の波長」 と、 「神の心の波長」 とが合わないからである。 だからイエスは “山上の垂訓” に於いて 「幸福なるかな、憐憫ある者、その人は憐憫を得ん」 と教えている。 憐憫と云う語は多少変な感じの語であるが、人類愛又は慈愛の心のことである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和33年12月号