この世の中には、「神がある」と思っている人もあるし、「神なんてない」と思っている人もある。 併しながら、無神論者で「神」という名称を使うことをきらう人でも、何らかの名称で「神」を考え、神に一致した生活をしようとしているのである。
唯物論者であり、社会主義者である人でさえも、「社会的正義が行われなければならない」とか、「富を公正に分配しなければならない」とかいう理想をもって、その理想実現のためには身を挺し、生命の危険をも顧みず奮闘している人があるのは、それは無形の存在ではあるけれども、有形の存在(肉体の生命)を棄ててでも、それに奉仕しなければならないところの尊貴な神的存在(「正義」と称するようなもの)があることを信じているからなのである。
或いはまた、「この世界は神が造ったのではない、自然にあるのだと思う」という人もある。 その、「自然」と称する神秘不可思議なものが神であり、自然界の法則が神なのである。
自然は、今もあり、過去にもあり、未来にもある。過去・現在・未来を通じて永遠に、その法則によって一切のものを造出しつつあるのが自然であり、神であるのである。
聖経『甘露の法雨』には、神を「宇宙を貫く法則」として示されている。人間が創造せられるまでは、一切の鉱物・植物・動物ことごとく法則の支配下にあって、自分自身の創意によってその運命を切りひらくことはできなかったのである。
動物でも精神的要素をもっていて、巣を計画したり、産卵の場所を定めたりするけれども、概ね、“本能”と称する他動的な力によって動かされているのであって、自己の精神の自発的自主的な計画や希望や理想によって動くのではないのである。
併し、人間に於いて、神は自己のイメージを具体化して単にその全相をあらわされたのであって、人間は神のイメージとして、自然界の法則に随いながら、単に法則に支配されるのではなく、自然界の法則を駆使して希望を達するのみならず、更に“心の法則”を発見して、自己の運命を“心の法則”によって変革することができるのが人間なのである。
即ち人間に於いては、神が“真空”の世界から“想念”の方法によって一切を創造したと同じように、“想念”を駆使することによって万物を創造し、自己の運命さえも変革することが出来、まことに人間は“神の子”と称するにふさわしき「第二の創造者」となったのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和40年2月号