ノートルダム清心女子大学の渡辺和子学長が、或る雑誌に書いて居られた一節に、
「・・・・・礼儀には同時に、人間のあり方としてのきびしさがある。 アメリカで実際にあった話である。 一人の黒人が招かれて講演したとき、激しい野次と妨害がおこった。 最後まで態度を変えることなく講演を終えて壇を降りてきた黒人に、主催者側は謝りながら、何故ののしり返さなかったのかと尋ねたところ、
『私は、相手の低さにまで身を屈することができなかったからだ』
と答えたそうである。 この言葉には衿を正させるきびしさがある」
私はこの文章を読んだ時、白人に蔑視されている黒人の中にも、白人以上に高い魂の人のあることを知った。 色の白いのが尊いわけでもなく、色の黒いのが卑しいわけでもない。 魂の高いのが尊いのである。
私は時々テレビなどで議会の光景を見る。 反対党の人が演説していると盛んに野次る。 国民の選良らしい紳士的態度でなく、下卑な言葉、怒りに上ずった表情で怒鳴る。 その党の人が演説しはじめると、今度はその反対党がまたガヤガヤ野次を飛ばしているので、聴取者には演説の言葉がわからなくなってしまう。 相手の言葉を静聴するという礼儀もなく真心もない。
相手が野次るから自分も野次り返すというのでは、どちらも同じレベルに立っているのである。 それでは、相手を馬鹿にしてののしる資格はないのである。 同じ低さにあるのだからである。
渡辺和子学長はまた、
「・・・・礼儀を軽視する多くの人は怠け者である。 寒いときにマフラー、オーバーをとって挨拶すること、 一歩譲って他人を先にすること、 心をこめて“お早ようございます”ということには努力がいる。 この努力をしないで、自らの怠慢を正当化するために、無礼のまかり通る時代を謳歌しているのであれば、その波に乗ることは、人間性の危機をもたらすことでしかない・・・・・」
とも言っておられる。 ここで言われる人間性とは、動物性に対する人間らしさのことであろう。 動物には愛情を示す動作はあるけれど、礼儀はない。 創られたるものの中で、礼儀のあるものは人間だけである。 人間の形をしていながら礼儀を知らない者は動物なみだと言われても仕方がないであろう。
渡辺和子学長は、マフラーやオーバーをぬいで挨拶するには努力がいると言って居られる。 その努力を実行することが克己である。 誰でも寒い時は脱ぎたくないであろうけれど、己れに克つことの出来る人は敢然と脱ぐのである。 師の講話を聴く時に、マフラーや道行コートを着たまま畳や椅子に坐っている人は、己れに負けた人である。
谷口輝子大姉 『理想世界』誌 45年7月号
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』