1.竹島は日本人のみが利用してきた
【Q】 竹島がわが国固有の領土であることを示す「歴史的な事実」とは?
【A】 簡単に言えば、「日本人は古くからこの島を利用してきた」ということですが、具体的には次のような「歴史的な事実」が挙げられます。
・日本は古くより竹島(一九〇五年以前は日本は「松島」と呼称)を認知していました。 これは多くの文献や地図などにより明白です。
例えば経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の 『改正日本輿地路程全図』(一七七九年) では現在の竹島を位置関係を正しく記載しています。 その他にも明治に至るまで多数の資料があります。
・江戸時代の初期頃から、鳥取(伯耆)藩の回船業者が鬱陵島(竹島の北東にある島で、アワビ採取やアシカ猟に絶好の島)への渡航・開発を行っていましたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地や漁労地として利用されていました。
例えば元和四年(一六一八)に大谷甚吉、村川市兵衛が鳥取藩を通して、幕府に鬱陵島への渡海・開発を願い出て許可された文書の中にも竹島の記述が登場します。 両人は渡海免許を受け、鬱陵島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していましたが、遅くとも一六六一年には、両家は幕府から竹島を拝領していたと言われています。
・元禄九年(一六九六)、鬱陵島の帰属が韓国(当時の李朝)との間で問題となり、交渉の結果、幕府は鬱陵島への日本人の渡航を禁じ、事実上、鬱陵島が朝鮮領であることを認めました。 しかし竹島は何ら問題となることなく、鳥取藩の回船業者による経営が引き続き行われました。
・日本は明治三十八年(一九〇五)閣議決定と島根県告示により竹島を島根県に編入、竹島を領有する意思を再確認しています。 その後、竹島は官有地台帳に掲載され、竹島でのアシカ漁は許可制となり、先の大戦により昭和十六年(一九四一)に中止されるまで続けられました。
以上の歴史的事実に照らせば、わが国は遅くとも十七世紀半ばには、実効的支配に基づき竹島の領有権を確立していたと考えられるのです。
【Q】 韓国の歴史教科書には、竹島(独島)は「わが漁民たちが漁をする拠点として活用してきた」という記述があります。
【A】 確かにそうした記述はありますが、それを証明する資料は存在しませんし、また事実でもありません。 そもそも一八八二年と一九〇〇年の二度にわたり、朝鮮側は鬱陵島の調査を行っていますが、その際にも彼らは竹島を確認していません。十九世紀にすら確認できなかった竹島を「漁民たちが漁をする拠点として活用してきた」はずがありません。
【Q】 韓国の歴史教科書には、安龍福なる人物が竹島に「往来する」日本人を追い払い、竹島が朝鮮領であることを日本側に確認させたという記述もあります。
【A】 それも全くのデタラメです。 そもそも安龍福という人物は、一六九三年に鬱陵島にやってきて、日本側の取調べを受けた後に朝鮮に送還され、また三年後の一六九六年には隠岐に密航し、帰国後、海禁を犯した罪で李朝の役人に取調べを受けた人物で、二回とも竹島には行っていないのです。
二度目の渡航の後で取り調べを受けた際、自己保身などもあり、彼は鬱陵島から日本人を追い出したと述べているのです。 むろん、幕府による鬱陵島渡航禁止令の後で、鬱陵島に日本人がいるはずもありません。
このように、安龍福の証言は全くの虚偽だったのですが、後世彼のウソが歴史書や教科書にまで記載され、「事実」とされていったのです。 ともあれ、竹島は長年に渡って日本人のみが利用してきたというのが歴史的事実です。
2.竹島編入の国際法的な正当性
【Q】 竹島がわが国の領土であることを示す国際法上の根拠とは?
【A】 先にも触れたように、日本は明治三十八年一月の閣議決定と二月の島根県告示により竹島を島根県に編入、竹島を領有する意思を再確認しています。 もちろん閣議決定に際して政府は、「他国に於て之を占領したりと認むべき形跡」のないことを確認しており、当時の大韓民国政府からの抗議もありませんでした。
なお、竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認したもので、それ以前に日本が竹島を領有していなかったことを示すものではありません。
【Q】 日本の竹島編入措置について韓国政府は、日本は当時、日韓議定書と日韓協約を韓国に強要し、強制的に日本外交顧問団の便宜を保証させていた ―― つまり外交権が強奪されていたのであるから無効であるとか、日本の領土編入は地方官庁の声明に過ぎず、韓国の主権は影響を受けないなどとも反論しています。
【A】 まず、外交権を奪われていたという主張は事実の歪曲です。 日本が大韓帝国の外交権を管轄するようになるのは竹島編入の九ヶ月後、明治三十八年(一九〇五)十一月の第二次日韓協約においてです。 韓国政府が指摘した日韓議定書は外交権とは無関係であり、また(第一次)日韓協約でもアメリカ人顧問をおくことが決められていたに過ぎません。 実際、この段階で日本が外交権に干渉したという事実もありません。 すなわち、大韓帝国が当時本当に竹島を領有する権限を持っていたならば、日本に対して抗議することは何ら妨げられなかったはずなのです。
一方、日本政府による竹島編入措置の合法性も全く疑いをさしはさむ余地はありません。
まず、この編入は「無主の地」に対する領域取得である「先占」という国際法の原則に従って行われています。 「先占」は、その島を「見た」というだけでは要件が成立せず、国旗を立てたり、国家の行政事務(地方自治体を含む)や法令の対象とするという要件が必要になるのです。 日本の編入措置がこの原則に則っていることは明白です。
なお、領土編入措置を外国政府に通告することは国際法上の義務ではありませんが、竹島編入の事実は当時の新聞にも掲載され、秘密裡に行われたものでもありません。
つまり、近代国際法から見ても竹島の編入は、手続きにおいても効果においても完全かつ合法と言えるのです。
3 講和条約でも日本の領有を確認
【Q】 韓国政府は、戦後処理のための諸文書を根拠に、わが国の竹島領有の主張に反論を加えています。
【A】 この主張にも全く根拠がありません。 確かに、昭和二十一年一月の連合軍総司令部覚書(第六七七号)は、日本が竹島に対して行政上の権力を行使することなどを暫定的に停止ししました。 それをもって、韓国政府は連合国が竹島を領土から外したものだと主張するわけです。
しかしこの文書は、文中で日本国の領土帰属の最終的決定に関するものではないことを明記しており、竹島を日本の領土から除外したものではないことは明らかです。
【Q】 韓国政府は、サンフランシスコ講和条約には、竹島を日本領とする記載がないから、先の総司令部の覚書が有効と反論しています。
【A】この主張も全くの言い掛かりに過ぎません。 なぜなら、条約の成立過程で韓国は竹島の領有権を主張し、昭和二十四年十一月までの米国側草案では、日本の朝鮮放棄の範囲に竹島も入っていたのです。 ところが、米国のシーボルト駐日政治顧問の意見により、竹島の放棄は以降の草案から外されることになったのです。 だから最終的に講和条約では、日本が放棄する朝鮮の領域は、「済洲島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定され、そこに竹島は明記されていないのです。 こうした経緯を見れば、講和条約が竹島は日本が保持するという趣旨で締結されたことは明白です。
4. 韓国の竹島占拠の不法性
【Q】 韓国による竹島の不法占拠はどのように行われたのですか?
【A】 対日講和条約が締結された翌年の昭和二十七年一月、韓国は突然 「李承晩ライン」 を設定、その際、韓国側に竹島を含めてしまったのです。 この李ラインは、公海上に勝手に線引きし、他国の船舶の進入を阻み、漁業規制を行った不法な措置ですが、そこには講和条約で実現できなかった竹島を講和条約発効(昭和二十七年四月)直前に奪取しようとの狙いがあったのです。 この明白な不法に対しては、日本のみならず、米、英、中華民国も抗議しています。
さらに、わが国は、海上保安庁が幾度も韓国人を退去させるなどしましたが、韓国側は竹島に近づく日本の巡視船に砲撃を加えるなどの実力行使を行い、警備隊を常駐させ、不法占拠を常態化させるに至ったのです。
一方、日本は昭和二十九年九月、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することを韓国側に提案しましたが、韓国は応じませんでした。 また日韓条約交渉でも竹島問題が議論されましたが決着がつかず、「紛争解決に関する交換公文」を交わすことで合意。 これによると、竹島問題は、まず「外交上の経路を通じて」解決を図り、これで合意ができなかった場合、「両国政府が合意する手続きに従い、調停によって解決を図る」と定められました。 しかし今日に至るまで、韓国は外交交渉にも応じず、また国際司法裁判所の調停も行われていないのは周知の通りです。
〈『明日への選択』付録「ネットワーク・ニュース」平成17年5月号〉