生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
あなたの魂が“新生”しているか否かは、あなたの心が、常に光の方向を向いているか、“常に”ではなく、時々まだ“暗黒”の方向に振向くことがあるかによって見別けることができるのである。 また、あなたが人間の性善説を信ずるか、性悪説を信ずるかによっても、見別けることが出来るのである。
近頃、どこかで催された国際的なアンケートによると、日本の青年が、最も多く人間の性悪説を信じているという回答が出て来たということをきいて私は驚いたのであるが、併しそれは無理はない、日本では学校では宗教教育が禁じられているので、神を教えられないで、日本の青年は幼少時代から無神論で教育せられているからである。
唯物論の結果するところは、肉体の快不快と物質的利益不利益が人間の行動を左右するところの原理となるから、人間は肉体の苦痛や困難をきらって、快楽に走り、人を傷つけても自分の利益と快楽を求めることになる。 そして彼らはそのような傾向を“悪”だとみとめる“良心”が幾分か残っているものだから、そのような傾向を有する人間を“悪”だと認め、人間の性悪説を支持するようになっているのである。
それでも“悪”を“悪”とみとめる道徳的規準をもっているのは、彼ら自身の中にある“善”なる基準が消えていないからであって、それだけでも、人間は本来“性善”であり、善悪を知る“神の子”が宿っていることがわかるのである。
共産主義でも、人間を幸福にしてやりたいという“愛”の衝動によって行動し、それが成就するには革命をも辞せずという理想をもっている。 そのような人間を幸福にしたい“愛”が彼らに宿っているのは、彼らも“神の子”であるからである。
しかし彼らが間違っているのは人生観及び世界観が唯物論的であって、物資や生産の道具や生産物の配分の統制によって人間の幸福が招来されるものだと思って、彼らの心のはたらき及び行動の向き方が、物質の方向にばかり向いているからである。 その結果、彼らは魂の光を見ることが出来ない。 愛の光を見ることが出来ない ―― 物質には魂の光はないからである。 そして彼らは暗黒面のみを見ざるを得ない。 しかも彼らは“神の子”であるから、その暗黒面を破壊して光を見出そうとする。 それが制度や体制を破壊しようとするのがそれである。
しかし制度や体制はなかなか頑固な牆壁となって彼等の前に立ちふさがっていて破壊し得ない。 彼らは、もどかしさを感じずにはいられない。 彼らは自己の力が制度の前に無力であるのを痛感する。 彼らは“神の子”だから、“神の子”にふさわしくない自分の弱さを憎む。 その憎しみが自己嫌悪となり、やり切れなくなり、その内向的やり切れなさが蓄積して飽和状態を超えると、やがて一転してそれが外交的に爆発して、内ゲバとなり、仲間同士が殺し合いをするような残虐行為となってあらわれるのだ。
彼らを救う道は、彼らが“神の子”であり、人間の幸福は、唯物論的方向からはかち得られるものでなく、人間の実相は“神の子”であり、性善であるから、その性善をあらわすようにすれば地上天国が実現するのだという、実相哲学を知らせてあげるほかはないのである。
そのような青年たちに読ませてあげたいのは 『生命の實相』 であり 『信仰の科学』 であり、 『いのちの革命』 というような反唯物論哲学である。
ウイリアム・ジェームズ教授のプラグマチズムが教える如く、その人の把持する哲学が正しいか正しくないかは、その哲学を奉ずる人が幸福になれるか、なれないかで判別することができるのである。 マルキシズムを把持しながら、心がやり切れなくなって、同志互に殺傷し合わねばならぬようになっている現状は、彼らの捧持するマルキシズムの哲学が正しくないこどみずから証明しているのである。
『白鳩』誌 昭和49年新年号