諸君よ、今日かぎり、他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取戻そう。 他人が悪を犯したからって、自分がなぜ不幸にも、憎しみの歯輪で噛みくだかれなければならないのであろう。 あなたの心は他人の悪の餌食となって食われてしまわねばならないような一片の肉塊ではないのである。 あなたの心は何物にもしばられないで、それ自身で幸福になりうるということを知らねばならぬ。
自分の心の高貴をとりもどせよ。 自由と独立とを奪回せよ。 相手が下劣なことをすると思うならば、下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。 相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りていって愚劣と肩を並べねばならぬということはないのである。
しかし、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために ―― 言い換えればみずからのみを潔しとし、他を傲然と見下ろすために許しの王座に上るものは、なお本当には自己の生命を伸び伸びと生かすことができないのである。 それは 『生長の家』 の生き方ではない。
かかる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他がいっそう低く見える。 彼は自己の心のうちに他の醜さを常にえがいて暮さねばならぬ。 自己が高くあがればあがるほど、自己の心のうちを他に対する軽蔑や非難の声でみたさねばならぬ。 彼はいつの間にか放下していたと思っていた人生のカスを自分のうちに充満せしめることになる。
『生長の家』 の礼拝主義はそんなたんなる寛大主義ではない。 また自己のみが高くあがる独善主義でもない。 それはほかの見せかけの他人の悪にとらわれない。 その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。 その人の本質にある神を見るのである。
どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。 どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に価する内在価値をもっている。 諸君は百円札が汚れているからとて、その内在価値を疑うか。 しからば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、その内在価値 ―― 神の子としての価値を疑ってはならない。
谷口雅春師 『生命の實相』 生活篇より
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』