人の美点を見て、それを称め讃えることは非常に大切である。 この称賛によってはじめて内在の「神性」が開発されるのである。 現象の奥に隠されている「実相」は、こうしたよき称賛のコトバによって、はじめて発掘されるのである。
ところが、人の欠点を見て、それを称賛したらどういう結果になるであろうか。 例えば鼻が低くて苦しんでいる御婦人をつかまえて 「あなたの鼻は高いですねぇ」 と言ったら、恐らく彼女はその言葉を善意にはとらず、 「あの人はイヤミな人だ。 私を侮辱した」 と憤慨するであろう。 髪の毛がうすくて悩んでいる男性に、 「君の髪の毛はまことにすばらしね」 と言っても同じことである。
そこで吾々は 「欠点」 をほめ讃えたのでは決してよい結果はあらわれないということを知りうるのである。 称賛すべき対象は、相手にある 「美点」 でなければならないのであって、それは 「実相」 が現象にあらわれている箇所であるが故に、 「実相開顕」 の起点となるのである。
このことは、国家や団体に対しても、あてはまる筈である。 或る国家の、真にすぐれた長所を認め、それを称賛することはよいが、その国家の欠点や、悪を、善や美点であるかのごとく言いふらすのは、 「実相開顕」 の力のみならず、相手をそこない、自己を堕落せしめ、多くの人心を惑乱する結果となるのである。 吾々が共産主義国の政治形態を称めることができないのは、共産主義が唯物論に立脚している関係上、そのやり方が 「神の國」 の理想とくいちがっている点が数多くあるからであって、この 「欠点」 を称賛すれば、人心を惑わすからである。
勿論、全ての人類は 『神の子』 であり、その本質がすばらしいのである。 しかし 「国家」 には 「神の國」 らしからぬ国家も沢山あって、それは現象人間に悪人が沢山あると同様であり、これらすべての仮相をそのまま良しと認めるわけには行かないのである。
個人としての人間であれば、いかなる人も自分や他人の悪い点を知っているから、善のみをほめておればよい。 しかし国家形態となると、どのような国家が 「神の國」 の理想にかない、どのような国家形態がニセモノであるかを知らない人が多くいるのである。 そこで吾々は、先ずその説明から始めなければならない。 個人としては盗癖を善しとみる人はいないであろうが、国家となるといかに盗癖のある国家でも、生命圧迫の国家でも、それを 「善」 とみる 「迷妄者」 がいる。 そこで吾々はその間違いを指摘し、 「真理国家」 のすばらしさを説かざるを得ないのである。
谷口清超師 『生長の家』誌 昭和42年2月号巻頭言