人の悪口(あっこう)を言う暇があれば、良き言葉を発すると、自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。
善き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、悪しき言葉は雷のように吾々の心を真黒にするのであります。
空から花びらが降るように讃嘆(ほめたたえる)語(ことば)をもって雨降らすのが生長の家の生き方であります。
この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、皆さん自身の言葉一つできまります。
必ずしも金があるから、それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。 金が幾らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、子どもが疳虫(かんむし)になったりしていてはなんにもなりません。
それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。
皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。
皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。
たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行ってもやはり能率がはっきり上がらないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。 その結果、昇給もしないという事になります。
事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。
家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、子供の健康も成績も悪くなります。
何事も家が元になるのでありまして、生長の家へ来れば病気が治るという事も、要するに人間の身体の病気を治すのではなく、心の持ち方をかえさせて家の病気を治すのであります。
家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。
家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら互いに争って熱心に 『生命の實相』 を読んでも、病気も治らないことがあり、成績がよくならない場合が多いのです。
だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして 『生命の實相』 を読む事であります。
褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。 ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。
褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。 ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。
というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、目前(めのまえ)の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、1分間あった失敗を1時間ぐらい怒鳴りつける。その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事をしているような人たちの集まっている家庭は、いつも面白くないのであります。
そして「自家(うち)の親爺は一日中叱言(こごと)ばかり言ってる」と言う奥さんもありますけれど、必ずしもそうではないので、本当はその御主人が偶(たま)に10分間ぐらい怒鳴った事を、一日中叱言言うと誇張して奥さんが考えている場合が多いのです。
それは、心の中にその叱言を常に持続けているから、10分間位ちょっと叱言を言った事が一日中言った様に思えるのです。
どんな悪い主人でも、どんな疳癪持ちのお父さんでも、一日中叱言をいう主人はいないのであります。
ときたま叱言がある場合でも、それは一日のうちの何分の一に過ぎない叱言であります。
ところが「自家(うち)のおやじは一日中叱言(こごと)言う」とか「1年中叱言を言っている」とか考えているのは、そう考える奥様や子供の心の中に「叱言」がいつまでも忘れられずに貯えられているからです。
そういう場合にはどうもその家庭は面白くないから、良人の方でもあんな家内に話しかけても面白くないと思って奥様の部屋に行かないで、夫婦一つ屋根の下で同棲していながら、黙って10日も20日も物も言わずに暮らしているような状態になる事もあります。
そんな状態はなぜ起るかと申しますと、それは「悪いこと」をいつまでも心に持っているからであります。
「悪い事」をするのは悪いには相違ありませんが、「悪いこと」を心に持っているのは尚(なお)いけないのです。
なぜなら悪いことを実行するだけなら、やってしまったあとはもう無いのですけれども、心の中に持っている時は、その悪いことを何時(いつ)までも何時までも持っているからであります。
悪い事はなんでも忘れる事が、生長の家の生き方でありまして、たまには腹が立ってもよろしい。 しかし5分間もしたらその腹立ちが心の中ですっかり帳消しになって忘れてしまうようでないといけません。
それを生長の家では自壊作用と申しまして、業が解消する作用の一つとして叱言が出たり夫婦喧嘩をしたり、時には攫(つか)み合いをするという事がありましても、それは決して悪い事ではないのでありまして、
過去に溜まっておった自分の念(おもい)――― その念(おもい)の鬱積(うっせき)というものが形になったのであって、形に現れた時、内部の心のもつれは消える時
なのであります。
なのであります。
たまたま主人ががんがん言っても、「これはありがたい、これで二人の間の蟠(わだかまり)が今夕立のようにあらわれて明日は晴れるのだ、これで二人の中が晴天になるのだ」と思うと本当に晴天になって、よけい仲が良くなる事になります。
会社、工場で上役や同僚(なかま)の者とイザコザが起こるのも同じこと、業が消えてなお一層よくなる。 「これはありがたい! 」と感謝の心で受ければ、その後は一層よくなるのです。
そういうふうに致しますと、私達の生活が本当に生長の家となり、栄える家の生活になるのであります。
谷口雅春師 『人生読本』