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Channel: 晴れときどき競馬とホークス
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心に「私」なき聖者は常に長命である

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 神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、目的事物を強く念ずる人がある。 そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

 ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、神の力の展開ではないと云うことである。

 それは時にはひどく疲労を惹起せしめ又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。 何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

 神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

 吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
 実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

 ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

 愛憎によって人間が註文しなければ、欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

 愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。


                           谷口雅春師 「光明道中記」

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