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恐怖心を克服する

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    若し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、
    而も恐怖を滅することを得ざるときには、
    恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、
    唯そのままであれ、
    ただ實相(そのまま)であれ。

    如何なる恐怖も
    『生命』の実相(そのまま)の中には存在せざるなり。
    無き恐怖を滅せんとする必要も亦あらざるなり。
    汝は汝の『生命』の實相(そのまま)で宜しきなり。
    恐怖しながら、そのまま恐怖本来無きなり。
    そのまま真に任せ切るとき
    實相(じっそう)なる神は一切の恐怖は拭い去り給はん。

                     『続々甘露の法雨』



 この一節は非常に深い真理が書かれているのであります。

 『生長の家』信徒行持要目の第二項には、 「そのままの心を大切にすべし」 と題して次のように書かれているのであります。

 「そまままは零なり、一切なり、○(まる)なり、圓萬なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難は “そのまま” を外したるときあらわれるなり、顧みて、 “そのままの心” に復るとき、一切の不幸は滅す」


 恐怖とは要するに “そのままの心” から外(そ)れた状態をいうのであります。 日本語の 「おそれ」 とか 「おぢる」 とかいうことばの語源は 「緒外れ」 「緒縮る」 という意味であります。 われわれの魂の事を、古語では 「玉の緒」 といったのであります。 天界から神の生命の霊気の極微の繊維が喩えば麻の緒のように連なって、髪の毛を通して人体に流れ入ってわたしたちの魂になっていると古代人は直感したのです。 それゆえに 「魂」 のことを古代人は 「玉の緒」 と呼んだのであり、頭髪は、神は生命の霊気の流れ入るアンテナ的なものと古代人は感じたので、頭髪のことを 「神の毛」 と称したのであります。

 そして、その玉の緒が心が正常で静かで波打たない時は、その玉の緒の極微の霊線がスンナリと、波打たず、縮れず、あるべき位置から外れずにあるのですが、何か驚くことが出て来ますと、玉の緒が、暴風に揺れて振動しながらヒュー、ヒューと梢が枝鳴りを起こすように轟くのであります。 その “玉の緒” が轟くことを 「緒轟く」 即ち 「おどろく」 というのであります。

 その 「おどろき」 が烈しくなると、魂は人によって二様の反応を起します。 その一つは 「玉の緒」 が縮みあがってしまうことであります。 これを 「緒縮る」(怯) というのであります。 縮みあがると冷えるので 「緒冷える」 ともいうのであります。 もうひとつの反応は、 「玉の緒」 が、そこにいたたまれなくなって、あるべき位置から 「外れて」 逃げ出してしまうのであります。 即ち驚きが烈しい時には “驚死”(ショック死) を遂げたり、気絶したりします。 人体の生理作用は、魂によって動かされているのでありますから、魂が、あるべき位置から外れて、人体内から一時外へ逃避しますと、気絶状態になるのであります。 恐怖で腰がぬけたりするのは、脚を司っている部の脊髄神経節から、玉の緒が一時的に外れて、冷えて縮みあがって充分脚部を司配し切れなくなったのであります。


 恐怖すればそのように、人体の生理作用を本来司っているところの神経系統を司配する主動者である魂が外れたり、冷たり、縮んだりして、正常なはたらきをしなくなるので、そのために、その位置に不随や病気症状を惹き起すことになるのであります。

 この聖経の一節に  『もし汝の心に恐怖を滅せんと努力して、而も恐怖を滅することを得ざる時には、恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、唯そのままであれ、ただ実相であれ』  とありますが、ここは充分、咀嚼(かみ)しめてその真理を味わって頂きたいのであります。

                    谷口雅春師  『白鳩』誌 47年新年号より




光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』

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