礼節は実相の秩序が、日常生活の秩序となってあらわれて来たものである。
秩序には必ず長幼の序が伴わなければならないのである。 近頃の若い人は、長幼の序の破壊が民主主義であるかの如く教育されているけれども、とんでもない間違いである。“礼”は“ノリ”とも訓む字であるが“ノリ”は“宣り”であり“コトバ”であり、実相世界にある生命の秩序あるリズムである。 それが動き出して現象世界にあらわれれば、それが“礼”となり“節”となるのである。
“節” は竹のフシのことである。 竹のフシは無闇矢鱈に伸びていないで、一節々々秩序あるリズムをもって列んで、節毎に太さと長さが異なっているのであり、それが長幼の序である。 その節によって、竹の幹は強化せられるのである。
人間の団体(家庭を含む)は長幼の序があるによって強化せられるのである。 学校で赤い先生に長幼の序を破ることを民主主義の“人間の平等”だなどと教えられ、親や目上に対して、まるで召使に言うようなゾンザイな言葉使いをする子供があるが、そんな家庭は実相の秩序の上に建っていないから基礎が脆弱だというほかはない。
礼節は、誠心(真心 ― 実相の心)のあらわれとして、それが作法にあらわれて来る時に価値があるのである。 誠心(まごころ)なくして形ばかり慇懃丁寧な場合には、「慇懃無礼」というものであって、実相世界の秩序のリズムがあらわれていないのである。 それは時として虚礼といわれ、内容が虚しくして、唯、形ばかりの礼儀を正しくしているので偽善でもあるのである。
礼節のうちには“謙り”の美徳がある。 自己の徳や善行を表面に出さないで下座にすわるのである。 自分の功績を麗々しく人々に吹聴するのはまことに聴きぐるしいものであるが、功績あってもそれについて傲らず、驕慢な態度に出ないものは、まことに奥床しい感じがするのである。
“奥ゆかしさ”というものは、露骨の反対であって、奥に実相の美しさを秘めながら、ほんの僅かその美しさが花の蕾のようにのぞき出して余韻をゆたかに残しているのである。 自分が出しゃ張ることによって、他の人の光を遮ることがあってはならないという深い実相の“心ばえ”が顕れた姿である。
茶花に椿の花を活けるときには、ほんのまだ蕾で、中心にチラリと花の色が見えそめているのを活けるのがよいとせられているが、それが“奥ゆかしい”姿である。 人間もそのようであるのが礼にかなうのである。
傲慢にみずからを高しとする者は却って貶され、謙虚にみずからの徳を隠して陰徳を積む者は却って高められ尊敬せられるのである。 徳を積み、光を重ねるとも、傲慢にそれを外に向って告げれば、既にそれは報いを受けたのであるから、過去の積徳は帳消しになった訳である。
徳を積み光を重ねながら、みずからを隠す者は、その積徳が霊界に貯えられ更に利子がついてイザという時、大業をなすための貯えとなるのである。 早く報いを求める者は、早く貯金を引出して消費してしまう者に似ている。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和45年9月号