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心に “智慧の耳” ある者は聴け

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 “智慧” は天来のものであり、神来のものであるから、それに従へば善なる結果をもたらすものであるけれども、知識は迷いを含んだ “人間ごころ” を通して出て来るものであるから、知識はその全部を受けて信ずれば、そしてその示唆するところに従って実行するならば、それは色々の禍を惹き起す種子となり、また引金となることがあるのである。

 だから知識を用うるときには、良心をもってその善悪を考慮してそれを実行に移さなければならないのである。 知識は人と物とを審判し、よく斬るけれども、時には相手を傷つけ、時には自分を傷つける双刃のつるぎとなる。

 
 智慧なき者の百年の生活は、智慧ある者の一日に及ばないのである。 智慧ある者の一日の説法は、智慧なき者が百年かかって集めたところの知識よりもすぐれているのである。 何故なら、そのような知識は幾百万人を殺すけれども、智慧ある者の一日の説法は幾百万人を生かす事が出来るからである。

 智慧なき者の知識によって堕胎は行なわれ、毎年幾百万人の胎児の生命が殺されてるのである。 併し 『堕胎が悪行である』 という智慧は、多くの国民の声ともならないし、政府の要人の心の耳にも入らないのである。 心に “智慧の耳” あるもののみ真理を聞くことができるのである。

 “智慧ある者” も、時には “人間ごころ” に誘惑されて罪を犯すことがある。 しかし “智慧ある者” はそれが “間違いの行為” であったことを、 “智慧の鏡” に照らし出して反省し、再びその過ちを犯さないようにつとめるのである。

 “智慧なき知識人” は、罪を犯しながら、それを “間違いの行為” であったということを自覚しないから、幾度びも罪を重ねるということになるのである。 そしてその過ちが重なるに従って自分自身の魂の蒙る傷は深くなるのである。

 だから釈尊は 『知らずに犯す罪は、知って犯す罪よりも重い。 例えば焼火箸と知らずに握った時の火傷は、焼火箸と知りながら用意して握った時の火傷よりもひどいのである』 と教えらえているのである。

 堕胎を “悪い” と知りながら堕胎した婦人は、その罪の歎きに、二度とそれを繰返すまいと心に誓うのである。 しかし堕胎を “悪い” と知らないで堕胎した婦人は、幾度びでもその罪悪を繰返すのである ―― だから知らずに犯す罪の方が深く重いのである。

 現行の優生保護法が堕胎を公許しているために、公許されているから 『悪事』 でないと思い違えている婦人が多くて、毎年 “胎児殺害” の罪を繰返しながら、それが悪事であると知らないのである。 優生保護法を改正する必要がある所以である。


                 谷口雅春師  『生長の家』誌 48年2月号




光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』

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