「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 完全なる真理でないものは虚偽である。 人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて自己の伝えんと欲することを表現するのである。 されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 事物は存在すると同時に存在しない。 有であると同時に無である。 全宇宙にはただ一つのものがある。 それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、善であると共に不善である ・・・・・」
これはエマースンの論文の一節である。 真理を知るためには、文字そのものに捉われず、行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。
釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。
言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 不言にして多言、多言にして不言。 真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 聴き方上手読み方上手が必要である。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和22年12月号