人間が自由な創造者であるか否かは、古来多くの哲学者によって論ぜられて来た所である。
然しながら、人間が自由である為には、少なくとも自分自身の運命や環境を自在に変貌し得るのでなければならぬ。 そうでなければ、自由であると云っても主観的観念的な自由に留まり、第三者の目から見るならば矢張り不自由な必然的な存在にすぎぬことになろう。
世人縷々口角泡を飛ばして人格の自由や尊厳を説きながら、而も現実生活を光明化し得ず、自己の宿命に対して忍従している。 忍従は敗北であり、諦観である。 忍従は不自由であって自由ではない。
凡そ現代の宗教が無力化している所以のものは、運命に対する諦観や屈従を以て信仰と誤解している宗教家が多いからである。 更に又、観念論哲学が論理的に極めて複雑高度な体系を装っているにも拘らず、進歩的インテリ層の関心を惹くに到らないのも、人間生活を現実的に変貌せしめ得るとの明確な確信をその根底に持っていないからである。
今日唯物論が急速に弘まりつつあるのは、その説く所が、社会的実践を通して人間生活を変貌し得ると云う事を合理的に論証している事に由る。 すべて人は幸福を求める。 幸福を確約してくれないような、あやふやなたよりのない観念論や信仰に満足している人があるとするならば、閑人か感傷家か社会的弱者である。
幸福と救済を約束するものこそ真実の宗教である。 ただそれが唯物論と異なる所は、 『今・此処に』 直ちに久遠の救済が現成することである。 社会革命による方法は、反対者の反動を買うかも知れぬ、現実の事情が許されぬ事もあるであろう。 そこにはやはり制約を被らざるを得ない。
すべての人類が正しい信仰者となるならば、社会改革の如きも、それが行なわれる可き最も適当な時にスムーズに行なわれるい違いないのである。 (N生)
『生長の家』誌 23年8月号 編集後記より
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