「われは汝の半身なり、われは汝と一体となることによって“永遠の今”において汝とともに“永遠に分ちがたき一つの生命”なることを知るのである。魂の半身がたがいに一体となるとき、そこに私たちは“永遠の愛”を感ずるのである。 “永遠の世界”における“美”を汝との結合において私は見、“永遠の世界”における“愛”を汝との結合において私は感ずるのである ・・・・・」
(『真理の吟唱』“幸福なる結婚を招く祈り”)
ここには深い“夫婦一体の真理”が語られているのである。 私たちは時間を絶した “永遠の世界”に於て本来一体であった魂が現象世界に、男女として分化して出現し、現象世界に於ては諸事ことごとく無常にして永遠というものはないのであるが、その現象的に男女として分化した両人(ふたり)が、互に結婚によって本来の一体となるとき、“永遠の世界”(実相世界)に於て本来一体であった実相の映像が現象界に完成し、現象にいながら、実相“永遠の生命(いのち)”を実感することができるのである。
これが 『真理の吟唱』 に録されているところの 「魂の半身がたがいに一体となるとき、そこに私たちは“永遠の生命”を感ずるのである。“永遠の世界”における“美”を汝との結合において私は見、“永遠の世界”における“愛”を汝との結合において私は愛を感ずるのである」 ということである。
このように実相生命の現成としての夫婦が地上に出現するとき、 「真の“美”の創造がはじまる」 のであり、現象界にありながら“久遠實成の愛”を顕現するのであり、「その“久遠の愛”が延長して人類に向うとき、そこに真に貴き人類愛がはじまるのである」
“人類愛”だとか、“世界平和”だとかいって噪がしく叫んだり、運動したりしている人達が多くあるけれども、それが本当に、“久遠実相の世界”から催して来つつある“真実の運動”であるためには、自己の生命が 「久遠生命の祝福を受け、“永遠の生命”の地盤に立って」 その地盤から逞しく萌え出でる運動となったものでなければならないのである。
家庭が紊れているような事では“永遠の生命の地盤”の上に立っているのではないのである。 家庭不調和のままで、社会運動や労働運動に熱心になっている人も随分あるけれども、そのような人たちはその運動の動機が、“永遠の生命”の地盤に立つというよりも、何らかの夫婦生活の不満や、社会生活の不満の捌け口を、その運動に求めている場合が多いのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 45年11月号