「天地一切のものに和解する」という事は、ただ単に表面の心で、自分は彼を赦しているというような浅い赦しようでは足りないのであります。
詳しくいえば、赦すなどという観念がすでに相手の悪を認めていることになっているのであって、それでは、すべての人間を吾が子として愛し給う神の霊波に波長が合わないのである。
心の隅のどこかにでも、誰かが自分に悪意をもっているとか、自分に害を与えるとかの考えを捨てることが出来ないでいる限りは、神の創造に何かまだ不完全があると信じているということになっているのであるから、それはまだ神と完全に和解しているということが出来ないでいるのである。
祈りがきかれる為には、神と和解しなければならない。 神と和解するためには、この世の中に、赦すべき必要があるような人間をいまだかって神は造り給うたことがないという深い信念にまで到達しなければならないのである。
もし「赦さねばならぬ人間」が自分の前に現れていて消えないとするならば、それは、神がかくの如き人間を造ったのではなく、自分がまだ神の造り給うたこの世界にそんな不完全な人間があるという迷いを持ち続けている証拠であるから、間違いは自分の方にあるのであって、神の創造に間違いがあるのではないのである。
だから吾々は相手を赦すどころか、自分を赦し給えと祈らなければならないのである。
「神よ、吾が信仰浅きを赦し給え」 と祈ったイエスの弟子のように。
谷口雅春師 『希望実現の鍵』より
※光明法話は左欄『今日の言葉』