『我心驕慢の者には、為めに大力士と現じ、諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』
菩薩は必ずしも柔和なだけではないのであります。 「右の頬を打つ者あらば左の頬をもめぐらせて之を打たせよ」 と云う無抵抗主義が効を奏することもありますけれども、必ずしもそうは行かない。 戦争放棄、無抵抗主義が好いこともありますけれども、それも時と場合、相手の人や国に応じて施策をめぐらせて行くのが 『實相』 把握の菩薩の勝方便なのであります。
観普賢菩薩行法経には、 「無量の勝方便は実相を観ずるより得らる」 と示されているのでありまして、実相を把握したときには、人・時・処に三相応して自由自在の働きが出来て来るのであります。
だから無抵抗ばかりが菩薩の勝れたる方便ではないのであります。 時として、大力士の姿を現じて、ガチンとその高慢の鼻をくじいてやる事も必要なのであります。 これが 『心きょう慢の者には、為に大力士と現じ、諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』 であります。 無上道と云うのは此の上ないサトリの道であります。
嘗て、白色人種が有色人種を馬鹿にして、東亜の諸国は殆ど悉くその植民地化か属領化していた頃、日本が蹶起してガチンと白色人種の膨大な軍備の国に対して一撃をくらわしたのであります。 その為に日本は軍国主義者だと言われ、戦場には附随し勝ちな暴虐事件などもあって、日本は世界から色々の批難を受け、自国もまた一時占領されるなどの 『剱をとるものは剱にて滅びる』 の心の法則を実演するに到ったのであります。
併しながら、かくの如き 『菩薩日本』 の十字架によって、東亜の有色人種はどうなったかと云いますと、 「人類は皮膚の色彩によって、その天賦の本質に高下があるのではない。 みんな 『神の子』 又は 『仏子』 として平等の権をもっているのだ」 という無上のサトリ(無上道)を得るに近づいて来、東亜の民族独立の気運を醸成されたのであります。
東亜民族の殆どすべて独立して自主性を恢復しつつあるのは日本のおかげなのであります。 だから菩薩道は無抵抗主義では可かんし、また軍国主義ばかりでも可かん。 なぐる時にはなぐらなければならないし、お辞儀をする時には正直にお辞儀をしなければならない。 そうかと言って、いつまでもお辞儀をつづけている必要もない。
菩薩は自由自在に千変万化して衆生を救済するのであります。 これを便乗だとかオポチュニズムだとか云って攻撃するのは間違いなのであります。 どんな 『善』 と見える行いにでも、時と場所と人とをわきまえずに 『この形が善だ』 と 『善』 の一定の 『形』 を捉えていては、善が善ではなくなるのであります。 それを 『善中の悪と云います』。
谷口雅春師 『維摩経講義』 菩薩随意転身の巻 より