誰にも人間には心の拠り所が必要である。
そしてそのような拠り所の一つは依存対象である。 赤ん坊にとってお母さんはこのような依存対象である。 夫・妻にとって妻・夫はそれぞれ依存対象である。 もし、この依存対象との関係が悪くなり安心して依存できなくなるとその人は不安になる。 その依存対象によって支えられていた自信、自己満足、万能感が失われるとその人は不快・憂鬱になる。
最近、私はこのような依存対象との関係が悪くなってしまったために不安、やがては憂鬱状態に陥ってしまった何人かの人々と接している。 そして、注目したのは、彼等の憂鬱には、一種の後悔、自己嫌悪の情がともなわれている事実である。
「どうして俺はこんな馬鹿なことをしたんだろう。 自分が一寸した迷いのために取り返しがつかないことをしてしまった」 そんな悔恨の情にさいなまれているのがメランコリーである。
フロイドは、このようなメランコリーの心理を依存対象を食い殺してしまったという無意識的な空想から生じた罪悪感に苦しむ状態として説明した。
では、ここでいう対象を食い殺すとはどいうことなのだろうか。 どうやらそれは、一時の欲のために、それまでの依存対象とのモラルを破り、相手を裏切ることのようである。 しかもこの裏切りが相手を裏切るだけではなく、自分をも裏切ることになる、そんな裏切りのことである。 だから悔恨や後悔の念にさいなまれるのである。
こう考えてみると、メランコリーになりやすい人間は利己的な人物ということになる。 一時の利己心のために、自分本来の依存対象を裏切る。 しかし、自分自身その依存対象によって成り立っているのであるから、このような裏切りは自己の根源に対する裏切りであり、ひいては自分自身を否定する試みにほかならないのである。 その一番原始的な形態が依存対象を食べてしまうということなのだろう。 一時の欲のために相手を食べてしまう。 しかし、その時彼は依存する対象を失ってしまうことになる。
実際の精神生活の中で、このような破壊的な関係はかならずしも一対一の間だけで起るとは限らない。 むしろ一時の利己心や欲のために、本来の依存対象にそむき離れ、別の対象を選ぶという形を取ることが多い。 その場合、本来の対象とのモラルを守るのがその人物の真の自己であるとすると、このような迷いは真の自己を見失う自己破壊ということになる。 このような状態に陥った人間は、生きながら地獄の苦しみを味わうことになる。
一方で本来の依存対象への思いを断ち切ることができず、しかもその対象にそむいたために和解することもできない。 罪悪感に苦しみ、自己を嫌悪しながら、道徳を失った利己的な自分は、本来のものではないと思いながら、自分の選んだ仮の対象とのかかわり合いを続けなければならない。
私たちはこの世に生きる常として、しばしばこのような迷いにとらわれ人間の道を見失うのである。
小此木 啓吾 『精神分析ノート』 より