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Channel: 晴れときどき競馬とホークス
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360度廻転の人生観

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 『生命の實相』 に書いてある360度回転ということが、私にはどうしても分らなかったのである。

 180度回転なら話はわかるが、360度回転してしまえばクルッと元の方向に戻ってしまう。 それでは回転してもしなくとも同じことではないか。 どうも元へ戻るくらいならば、始めから回転しない方がよいではないか、というような考え方を私は持っていたのである。 自分の人生観が今までと逆の方向へ変ってしまうのなら回転する必要もあろうが、元のところへかえってくるのなら始めから元のところにいればよいので、回転なんか始めからしない方がよいではないか、と心から思っていたのである。

 所が、私自身気がついてみると、きれいに360度回転している。 いや何時の間にか回転させられていたのである。 医者であった私が医者を止めると云い出した時は、一度反対の立場に立った時であるから、180度回転していたのであって、その時は 『無』 の世界へ飛び込んでしまっていたのである。 

 つまり 『現象なし』 『肉体なし』 『病なし』 という、今までの私の常識では全然考えられない 『無』 の世界観へ立った私は、今まで 『ある』 と思っていたものが 『ない』 と変ってしまったのである。 つまり 『無』 の世界へ入っていたのである。 その時私は 『無』 の世界へ入っていたので 『現象はない、肉体はない、というならば、御飯も食べず大便もせずに、生きていられる筈ではないか?』 というような屁理屈をまだ持っていた当時であったのである。

 つまり、今まで自分の持っていた総ての知識を捨てて捨て切った積りでいた時なのであるが、捨てると云うと又その捨てることに、つまり無と云えばその 『無』 に捉われていた時なのである。 結局、今までの 『自我』 を捨ててしまった時なのであるが、 『神の子』 吾の自覚にまで到っていない時であったのである。 自我を捨てて、 『無』 の中に入ってしまって、本当に 『無』 になってしまえばよいのであるが、まだその 『無』 に捉われていた時なのである。


 その 『無』 の中をさまよっていた時、私は谷口雅春先生が 『無門關』 を解釈された本を読んだのである。 その時、その本の中に

       無は關門である。 
       無は門であってその奥に家のあることを示す道標となるべきもので、
       その無の門の中に住んではいけない

というような意味のことを読んだのである。 そして私ははっとしたのである。

 私は 『無』 の中に止っていた。 『無』 に捉われていた、 『無』 の中に止るべきではなく、 『無』 の次の段階へ行くための一つの関門であったのだ、ということを私は始めて知ったのである。

 つまり 『肉体なし』 と云うことは、 『今まで自分を肉体だと思っているのは、神の顕現であったので、自分の肉体などはなかったのだ』 ということであり、 『現象なし』 とは、 『実相のみである』 という意味であったことが分ったのである。 つまり、実相一元、神一元の世界観にようやく突入できたのである。 今まで 『現象なし』 というと、その 『なし』 に捉われて 『無』 の世界観になってしまっていたのであって、それは人生観の転換の上の一過程にすぎなかったのだということがわかったのであった。

 つまり 『無』 とは 『自我なし』 と断ち切る 『無』 であって、自我の一切を無と断ち切った時、おのずからそこに生まれてくるのは 『神一元』 『神の子としての自分』 であったのである。 つまり、今まで肉体という 『もの』 によって出来上がっていると思っていた自分が、 『神の子』 としての自分に入れ替った姿が、360度回転であったのである。 『物質肉体の私』 は 『神の子の私』 に生れ更ったのである。


                 徳 久  克 己 医博  『歓喜への道』より



 光明法話は左欄『今日の言葉』

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