われわれは動いてよい時と
動かずに静かにしているべき時を知らなければならない。
静かにしているということも一つの行動であるからである。
「静」の世界から「動」が涌き出て来るのである。
「動」ばかりに狂奔している場合には、
神からの導きの声がきこえないことがあるものである。
「動」ばかりに狂奔している場合には、
神からの導きの声がきこえないことがあるものである。
だから仏教では禅定、キリスト教では祈りと瞑想、生長の家では
その両者を兼ねたところの行事「神想観」というのがあるのである。
その両者を兼ねたところの行事「神想観」というのがあるのである。
昭和48年 やまと新聞
谷口雅春先生 「新 一日一話」より
谷口雅春先生 「新 一日一話」より