物質界の事物や法則について知らない事があっても、その人の人間の品等を上下するものではない。
唯、知識ゆたかなものは世俗から尊敬せられたり、世俗の財貨を得たりするのに便宜であるだけである。 しかし “心の法則” を知らない者は 『教養がない』 ということになるのである。 更に、 “人間・神の子” 又は 『人間・則仏身』 の真理を知らないものは、いくら世俗の名誉があり財貨があっても、また所謂る “教養” があっても、魂の聖なる高さに達することはできないのである。
『人間・神の子』 の真理は、簡単明瞭であって、子供にもすぐわかる、少しもむつかしい事はない。 しかしその “神の子の心” になり、 “神の子” としての行為を毎日実践して、それを重ねて行かなければ、 “神の子” の実相はあらわれないのである。
それは恰も、朝顔の種子を見て 『これは朝顔の種子だ』 とわかる。 それは子供にもわかることだが、それがわかるだけでは朝顔の美しい花は咲かないのである。 それを土に埋めて肥料を施し、毎日水を潅ぐという簡単な仕事だけれども、その簡単な実践を毎日繰返し重ねて行くことによって美しい朝顔の花を咲かせることができるのである。
『朝顔の種子』 は 『真理』 に喩えたのである。 『人間・神の子』 の真理は唯、知っただけでは、ただ種子を大切に保存しているだけである。 その “神の子” たる真理を、神は愛であるから、愛を毎日の生活と出来事とに、小事といえども繰返し実践して行くところに、 “神の子” として美しい実相が現実に花咲くことになるのである。
中途半端な知識は却って失敗の因になるのである。 運転免許を受けたばかりのカー・ドライバーが、高速道路を速力一ぱい走らせて、カーブの処でハンドル回転の加減がわからず、ついにガード・レールを突き破って墜落して重傷を負ったり、死んだりするのがある。 これは自動車運転に関する中途半端な 『知』 しかもっていないからである。
中途半端な 『知』 を完全な 『知』 にまで完成するには、繰返し、小さな実行を積み重ねて行くがよいのである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 47年3月号より
光明法話は左欄『今日の言葉』