旧約聖書の創世記に、人間は最初エデンの楽園に住まわされて、無限の幸福と楽しさと裕かさの生活を享受していたのであるが、 「智慧の樹」 の実をたべることによって、人間の五官的智慧を生じ、人間を 「物質的存在」 だと観る迷妄に陥り、ついにエデンの楽園から追い出されて、苦しみて生活するようになったと云う神話が書かれている。
私たちが幸福な生活を送るためには、この追放されたる楽園に帰還しなければならないのである。 それには人間の 「生命の實相」 は如何なるものであるかと云うことを充分に知らなければならない。
「生命の實相」 のことを創世記では 「生命の樹」 の実として象徴的に書かれており、「生命の樹」 の実をたべれば、「生命の実(じつ)」 の相(すがた) がどんなものか自覚されエデンの楽園に帰還することができるのだが、人間を追放したエホバ神は、人間が楽園に還ることができないように、楽園へ還る道に 「焔の旋る剱」 をおいて通行を妨げ、ケルビム天使に衛らせて唯物論をいだく人間が楽園に還ることを拒絶していられるのである。
この場合、エホバ神と云うのは 「心の法則」 を擬人化した存在であって、決して神様が神罰を当てるために、人間をエデンの楽園から追い出したのではないのである。
「心の法則」 と云うものは、自分が把持した心の状態によってその人間を楽園にも置くし、楽園から追放もするのである。 即ち、心に唯物論を持ち、人間を単に、快楽反応する化学的物質として、自己の快楽追求の生活を送れば、その人は、楽園から追放されて、苦しみの生活を送らなければならないのである。
しかし 「生命の実の相」 《生命の實相》 をハッキリと知り、人間は神の子であり、霊的実在であり、神の霊の自己顕現であることも知り、神の子らしく愛他的な生活を送るようにすれば、やがて必ず、エデンの楽園そのままの天国的世界を自分の身辺にあらわすことができるのである。
そのために 『生命の實相』 を繰返し熟読するがよい。 またしっかり神想観を実修するがよい。
谷口雅春師 『生長の家』 昭和36年新年号 6、7頁