今回の番組では、先日の憲法9条に関わる 「ノーベル平和賞騒動」 を論じさせていただいた。 全くのバカ話なのに、新聞などの報道もあり、当日はテレビニュースも取り上げる騒ぎとなったが、そのお粗末ぶりを指摘したかったからだ。
それにしても、もし受賞ということになっていたら、ノーベル賞委員会は理由をどう説明したのか、と考えると、他人事ながらそうならないでよかった、としみじみ思う。 というのも、どれだけ憲法9条について調べたかは知らないが、受賞を決めていれば委員会は大恥をかくことになること必定だった、と思うからだ。
まず第一に、番組の中でも述べたが、9条にあえて特筆すべきようなことは何もないということだ。 1項はパリ不戦条約と国連憲章第2条4項の規定から導き出したものに他ならないし、2項の戦力不保持は規定はユニークな規定であることは確かなものの、実際には一度たりとも実現したことのない 「空文」 に他ならない。 そんなあやふやなものを申請者からいわれるままに平和賞に決めようものなら、後で実態を知ることになった世界のマスコミから、大変な批判・嘲笑を受けることとなっただろう。
同時に、こんな事実も指摘したい。 ノーベル賞委員会はかつて 「国連PKO 」に平和賞を与えたが、そのPKOにかつて日本も参加するという話になった時、真っ先にそれに異を唱える根拠として持ち出されたのが、この憲法9条だったということだ。 だから、そんな憲法9条に仮に平和賞を与えることになったとすれば、ノーベル賞委員会はこの点でも一体何を考えているのか、と批判・嘲笑の的となったに違いない。ところで 「平和、平和」 というが、ノーベル賞委員会はそもそも 「平和」 というものをどう考えているのであろうか。 まさか最低限の 「安全保障」 すら否定した 「平和」 を空想しているとまでは思いたくないが、そうだとすれば、彼らはこの 「安全保障」 という大前提の上で、「平和」 確保のあり方につき、判断を求められるということなのだ。 とすれば、この憲法9条を授与対象として検討するに当たり、この 「安全保障」 についての日本国民の様々な議論や考え方もまた、同時に精査してみる必要があったと考えるのである。 この点、果たしてノーベル賞委員会はどうだったのだろうか。
簡単に 「平和主義」 というが、実はその具体的なあり方は多様である。 自衛権すら認めず非武装をもって正しいあり方と考える平和主義、自衛権も武装も侵略的でなければ当然のことだとする現実的平和主義、あるいは安全保障の態様はともかく、専ら自国一国の平和しか考えようとしない一国平和主義、それに対して国際社会と協調して国際の平和を積極的に確保していこうとする国際協調平和主義 …… 等々、まさに 「国の数ほど平和主義あり」 といってもよいほどだが、果たしてそのどれを基本とするか不分明なままでは、少なくともこの種の問題についての判断は成り立たないのだ。この点、当然のことながら、ノーベル賞委員会の考えについては、何もわれわれには知らされることはなかった。 それゆえ、今回のような単に興味本位な、先走った希望観測も生まれたわけだが、とすれば、少なくともマスコミは、以上に述べたような論点にも充分に目配りした上で、この問題の報道・論評に当たるべきだったと考えるのだ。
これまでにも様々な 「?」 を連発させてきたノーベル賞委員会 ――。 だから、いかに 「そんなバカな話」 と考えても、「サプライズ」 の可能性は否定しきれなかった。 とはいえ、マスコミがもう少し知性的な報道を心がけていたならば、今回の騒動の色合いも自ずと異なっていたともいえる。 二度とこんなバカ騒動、繰り返してほしくない。
(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)これまでにも様々な 「?」 を連発させてきたノーベル賞委員会 ――。 だから、いかに 「そんなバカな話」 と考えても、「サプライズ」 の可能性は否定しきれなかった。 とはいえ、マスコミがもう少し知性的な報道を心がけていたならば、今回の騒動の色合いも自ずと異なっていたともいえる。 二度とこんなバカ騒動、繰り返してほしくない。
〈ChannelAJERプレミアムメールマガジン平成26年10月23日付〉