『週刊新潮』 2014年10月9日号
日本ルネッサンス 第625回
日本ルネッサンス 第625回
週末、都内のホテルの大ホールは熱気に溢れていた。 日本在住の台湾の人々が、11月29日の台北市長選挙の候補者で医師の柯文哲氏を迎えて激励会を開いたのだ。
柯氏は、台湾の改革は台北市の変化から始まる、台北市の変化の本質は台湾人の文化と価値観を取り戻すことだと説いた。 国民党の馬英九政権の下で教育内容が中国風に変えられ、台湾人の伝統も日本の教育の名残もすべて消し去られようとしていることへの挑戦である。
台湾回帰を説く柯氏はいま、台湾の各種世論調査で非常に高い支持を得ている。 台湾独立運動の闘士で現在は日本国籍の金美齢氏が柯氏を紹介してこう語った。
「医師として恵まれた生活をしているのに、なぜ、政界に進出するのかと聞いたら、祖国台湾を愛する気持ちをおさえられない、台湾のために尽くしたいと彼は語りました」
私は思わず、なぜ日本を愛すのかと自問し、「宿命として愛す」 という境地に落ち着いた福田恆存を連想した。
台湾にとって、この秋の台北市長選挙は非常に重要である。 11月の台湾の統一地方選挙は2016年の総統選挙の前哨戦となるもので、台湾の未来を決する。 民進党政権時代に東京で台北駐日経済文化代表処代表を務めた許世楷氏が語った。
「10年に台北、新北、台中、台南、高雄の5市の市長選挙がありました。 五大都市には台湾の総人口2,300万人の内、1,300万人が住んでいます。 国民党が3つの市の首長を取り、勝つには勝ったのですが、得票率では民進党が国民党を上回りました。 民進党約50%、国民党が約45%でした。 4年前はたしかに国民党が辛うじて勝ちましたが、いまや殆ど誰も馬政権を支持していません。 今度は民進党が勝利して、台湾人の手で台湾らしい国造りをする番です」
■一国二制度の実態
馬総統の支持率は9%で、政治的死に体に陥っている。 馬政権は今2期目、すでに7年目だ。 その間に台湾は中国経済への依存度を限りなく高めてきた。
許氏が語る。
「ヒラリー・クリントン氏が台湾の経済界に、中国経済への依存度を高めすぎることについて懸念を表明しました。 私たちも台湾が経済によって大陸に搦めとられることに、深刻な懸念を抱いています」
中国にとっては、しかし、このような台湾の現状こそ一大好機である。 9月26日、習近平国家主席は北京の人民大会堂で台湾の野党 「新党」 の党首らと会談し、「平和統一と一国二制度は国家統一を実現する最良の方法だ」 と語った。
ちなみに 「新党」 は国民党の非主流派の議員が分党して93年に結成した。 中台統一に熱心な推進派によって構成されるが、党勢は当初6名、現在も小党である。
新党との会談で習氏は、中台関係について 「新たな状況、新たな問題に直面している」 とも語ったと報じられた。 許氏が批判する。
「習主席は国家統一のために一国二制度が最適だと言うわけですが、台湾人は統一など望んでいません。 私たちの望みは現状維持、つまり、台湾独立の状況を続けるということで、統一などは論外です。 また、中台間の新たな状況と新たな問題を懸念するとも、習主席は発言しましたが、今年3月から4月にかけての学生たちのひまわり運動のことを指しているのでしょう。 これは幅広い台湾国民の支持を集めた運動で、まさに民主主義国の国民の意思の発露です。 それを問題視するかのような姿勢は、私たちの価値観とは相容れません」
3月18日に湧き上がった台湾の学生デモは、馬総統が台湾国民の反対を無視して中台が互いに市場に参入し合う 「サービス貿易協定」 に調印したことへの強烈な抗議だった。
同協定は金融、保険、電子商取引などサービス分野の市場開放を認めるものである。 それは中台を 「ひとつの中国」 と位置づけ、経済的統合を根本から進めるものだ。 こうして、台湾経済を巨大な中国経済の一部としてしまえば、台湾は中国の巨大資本市場に飲み込まれてしまう。 その先にあるのは名実共に台湾併合だ。 学生に代表される台湾の未来世代が事実上の統一への第一歩であるサービス貿易協定に強く反対したのが、あのひまわり運動だった。
中国側は、台湾が国民党の馬政権下にある現在こそ、統一のより具体的な足場を築く好機ととらえている。 だからこそ、習主席は初めて、台湾との一国二制度に言及したのであろう。 中国の言う一国二制度の実態は、香港の現状が教えてくれる。
丁度30年前の84年に、英国と中国は香港の主権返還協定に仮調印した。 香港が実際に中国に返還されたのは97年。 50年間は香港の民主主義社会体制を変えないとする一国二制度を掲げた、中英両国政府による国際公約の下での返還だった。
■日本も体験済み
しかし、現実に起きていることは右の国際公約違反そのものであり、香港の民主体制への弾圧である。 とりわけ習政権発足以降は香港の高度な自治への圧迫が強まった。 たとえば12年春に梁振英氏が香港行政長官に就任したが、これは中国共産党の支持する選挙委員会によって選ばれた人事であり、中国共産党の香港に対する政治支配の第一歩だった。
梁長官は習政権の意を受けて香港の自治を阻害する政策を打ち出してきた。 すなわち、17年から普通選挙を実施するとしながら、実際には民主派の候補者は立候補出来ないように、あらかじめ中国共産党が候補者を選ぶことが出来る制度設計を決定したのだ。 香港は完全に中国共産党の政治の枠組みに組み入れられるということだ。返還からわずか17年、中国は早くも国際公約を反古にしつつある。
目先の問題を甘言で先延ばしし、時間を稼いで中国支配を強めていくこの手法こそ、中国の常套手段である。 日本も体験済みだ。
日本は78年に日中平和友好条約を結んだ。 当時小平は尖閣諸島問題は棚上げで合意したと語ったが、日中間にはそのような合意は存在しない。 それでも中国は 「領土問題を棚上げ」 して、尖閣諸島問題は後の世代の人々が平和的話し合いで解決すればよいと述べ、ひたすら日本から多額のODAを受け取り続けた。 それからたった14年後の92年、中国は勝手に法律を作って尖閣諸島を中国領と決めてしまった。 そしていま、尖閣諸島を実効支配すべく毎日のように公船を侵入させている。
一国二制度下で民主体制を50年間守り通すという香港に対する公約は17年で破られている。 台湾への一国二制度の内容は不明だが、端から信用しないのが一番であろう。
柯氏ら台湾の政治に挑戦する人々の前に、こうした百戦錬磨の中国共産党が立ちふさがっている。心から健闘を祈りたい。