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真理の公共性

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 真理は個人のものではない。 真理は神のものである。


 真理を知らされたということは、神から真理を授けられたのであり、何のために授けられたかというと、諸君は、真理を他に伝えるに相応しい “霊の選士” として選ばれたからである。

 真理を自己の健康のためのみに、自己の富の増大のためのみに、自己の事業の成就するためのみに ・・・・・ その利己的目的のためのみに使うならば、それは公けのために授けられた宝を私用のためのみに壟断するものだと言わなければならないのである。 こんな場合には、入信当時有効にはたらいていた 「心の法則」 という鍵も、いつの間にか宝の倉庫を開くことができなくなるのである。

 真理は公共的なものだということを知らなければならないのである。 公共性に働かせないとき、その握っている真理もあたかも 「魂」 の脱けた形骸となるのである。

 公共的なものは、これを公共的に使うとき益々多くの実を結び、人類を光明化する天使(てんのつかい)としての能力も殖えて来るのである。 だから生長の家の誌友となり、或は 『生命の實相』 を読み、真理を知らされた者は、一人が必ず百人の人を救済せねばおかぬという大決心をもって、この真理を、自分の知人、友人、近隣の人たち、電車、汽車等にて触れ合う人たちに伝えて、神から 「真理」 をまかされた霊の選士としての自己の使命を完うしなければならないのである。

 真理を自己のためのみに使って、肉体の健康を得、事業を成功させて富を増殖したところが、彼は決してまだ本当に 「真理」 を知ったのではない。 何故なら彼は、真理の公共性を知らないからである。 それは肉体の健康、富の増殖という物質的なことに心を奪われている点において、彼はまだ 「物質の奴隷」 であって、真理を知って 「自由」 となったのではないのである。 奴隷は決して自由人ではないからである。 真に自由人となるためには、そような物欲から解脱しなければならないのである。 そして何物をも求めず、ただ 「与える」 という心境になった時にのみ、何物をもつかまないで自由になったのである。


 「真理」 さえも 「自分のもの」 として掴んではならないのである。 ただ与える喜びのためのみに真理を伝えることの出来る人こそ本当の自由人であり、霊の選士としての本分を満たすものだということが出来るのである。


 
                    谷口雅春師   『人生を見つめて』より



光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』

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