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「過去に向き合う」 というその 「過去」 とは何か

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   過去に誠実に向き合うと言う前に、もっと誠実な過去を示せ

 先日、ある憲法問題に関わるシンポジウムにパネリストとして参加していた時、聴衆のある女性が、 「日本人はもっと過去と誠実に向き合わなければならないのでは」 と質問してきた。 筆者は 「また聞いてきたようなことを」 と、ゲンナリした思いになり、その時は他のパネリストに答えてもらうことにした。 しかし、後になって、やはりあのときに一言いっておくべきだったのでは、と少し後悔することとなった。 いかにも良心派を思わせる言葉だが、一体自分でいっていることの意味がおわかりですか、と問うてみるべきだったと思ったからだ。


まず第一に、 「過去と向き合う」 というが、それはそもそもどういう 「過去」 を意味しているのか、ということだ。 その時、女性は 「例えば従軍慰安婦とか」  と発言したことを考えると、そこで彼女が考えている「過去」 とは、わが国の左翼や中韓などがしきりにいうところの 「過去」 であっただろう。 しかし、それは改めていうまでもなく、 「過去」 そのものではない。 彼らが勝手にでっち上げ、言い募る 「過去もどき」 だ。 そんな一方的かつ事実の根拠すら怪しいものに、「誠実に」 向き合う必要などこれっぽっちもない。 むしろ 「誠実」 をいうなら、「もっと誠実な過去を示せ」 というのが正解だと思う。


第二に、そうした 「過去」 だとすれば、それには逆にわが日本人同胞が不当に殺されたり、犠牲となった 「過去」、そして何よりも、自らの家族や郷土、更には祖国を守るために、自らの尊い生命を捧げたわが先人たちの 「過去」 は、当然外されているのであろう。 それが果たして 「過去」 と向き合う、ということなのだろうか。 「過去」 は 「過去」 でも、それは最初から一方的、かつ限定的なのである。 われわれも 「過去」 には 「誠実に」 向き合いたいと考えるが、その 「過去」 はこの女性が当然のごとく前提とするように、間違った過去、恥ずべき過去とばかり、最初から決められるものではない。 また、「反省」 「謝罪」 とだけ結論づけられるものでもない。 むしろ、向き合えば向き合うほど義憤を感じたり、尊敬の念を抱く、という 「過去」 もあるのだ。


 第三に、中韓は日本にだけ一方的に 「過去」 に向き合えと主張するが、ならば彼ら自身はどうしているのかということだ。 そもそも彼らには厳密な検証に耐えうる 「過去」 そのものがあるのだろうか。 左翼の連中は 「過去」 に向き合うべきは日本人のみ、と考えているのかも知れないが、こんな一方的な話はない。 中韓にも 「誠実に」 向き合うべき問題のある 「過去」 は沢山ある。 しかし、彼らがそれに向き合ったという話は聞いたことがないし、そんな史実に忠実な歴史書など見たこともない。 万事、自らに都合のよいように作られているのが、彼らの 「歴史」 であり 「過去」 なのだ。 そんな連中にいわれて 「過去」 に向き合ったとしても、結果はその反省をいいように利用されるだけであろう。


 むろん、反論はこれに留まらない。 そもそも 「過去に誠実に向き合う」 という言葉自体が胡散臭い。 これまでこれを、鬼の首を取ったかのごとく主張してきた朝日新聞が、今回のような自らの都合の悪い 「過去」 に直面するや、途端に往生際の悪い姿勢を見せたのがそのよい例だが、そもそもこれは相手に対してのみ向けられる 「下心」 のある言葉だからだ。 相手を偉そうに説教する場合はそれをいうが、それが自分に向かってきた途端、言を左右にして無視を決め込む。 それがこの言葉なのだ。

 そんな 「下心」 さえわからずに、それをもって単純に 「良心の証」 と考えるその軽薄さこそが、今日の一般的世論の現状なのだろう。 それを改めて痛感した次第だ。
            (日本政策研究センター代表  伊 藤 哲 夫)

〈ChannelAJERプレミアムメールマガジン平成26年9月27日付〉


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