産経 子供たちに伝えたい日本人の近現代史 2014.9.28 14:00
『熱烈に歓迎された御巡幸』
■昭和天皇への敬愛にGHQは嫉妬
終戦から半年後の昭和21(1946)年2月19日、昭和天皇のお姿は神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場にあった。 全国御巡幸の最初の一歩である。
農業用肥料を作る同工場は戦争中、500発の爆弾と1千発の焼夷(しょうい)弾に見舞われた。 しかしこの時点で早くも日量6千トンの生産を再開していたという。
昭和天皇は前年秋、GHQ (連合国軍総司令部) のマッカーサー最高司令官と会談したさい 「国民を慰め励ますため、全国を回りたい」 と語られ、マッカーサーも賛意を示していた。
最初の御巡幸地が東京ではなく神奈川となったのは、東京では混乱が予想されたためといわれる。 だが当時食糧不足が深刻だっただけに、肥料生産の現場を選ばれたのかもしれない。
工場では社長の説明を受けて生産過程を視察、その後入り口付近に整列していた社員たちに声をおかけになった。
「何年勤めているのか」 「生活は苦しくないのか」。 初めて一般国民と言葉を交わされる口調にはいささかぎこちなさもあったが、心底生活を心配されるご様子に、声をかけられた国民が感激したのは言うまでもない。
その後、横浜市のバラック住宅街を訪問、翌20日は横須賀市の浦賀引揚援護局で、南方から復員してきたばかりの連隊の 「報告」 を受けられた。 この年は東京や北関東、東海など9都県を回り、翌22年には関西や東北、北信越、中国など23府県へ足を延ばされる。
夏、東北に出発される前、同行する入江相政侍従 (後に侍従長) が 「米国人も見てますから」 と背広の新調を勧めた。 だが 「国民は着るものにも不自由しているのだから」 と意に介されなかったという。 地方でお泊まりになるのは列車内や知事公舎、県庁などで、学校の教室ということもあった。 教室では板の間にゴザと布団を敷き、黒いカーテンをかけてお休みになった。
農村などの生産現場だけでなく宇都宮市では母子寮、被爆地・広島では戦災児育成所なども訪問、戦争で残された妻や子供たちを励まされた。 国民はどこでも熱烈に天皇を歓迎した。
だがこの御巡幸も22年12月を最後に長い中断に入る。 ありていに言えば、昭和天皇の 「人気」 をGHQの一部が恐れ、 「嫉妬」 の念を抱いたからだった。
20年9月の初会談以来、天皇のお人柄に魅せられていたマッカーサーとは反対に、GHQ内の民政局 (GS) は天皇と国民との間が近くなるのを好ましく思っていなかった。 GHQ内からも 「容共」 と批判を受ける体質があり天皇制廃止論者もいた。 米本国に根強い天皇の戦争責任論や 「退位」 を求める世論の反映でもあった。
特に22年12月5日からの広島御巡幸では、被爆地の市民が天皇を恨んでいると 「期待」 していたのに、熱狂で迎えられたことに恐怖を感じた。 さらに中国地方からお召し列車で帰られる途中、兵庫県で沿線の住民や子供たちが日の丸を振って見送った。 これに 「指令違反」 と態度を硬化させ、御巡幸打ち切りを決めた (鈴木正男氏 『昭和天皇の御巡幸』)。
ただ露骨な中止は日本国民の反発を招くとして、GSは当時の芦田均内閣を動かし、御巡幸を仕切っている宮内府の長官、次長、侍従長というトップ3人を一度に更迭させた。 このため中断せざるを得なかったのだ。
それでもまだ天皇を迎えていない地方からの再開を求める声は強く、GHQ内でGSの力が落ちたこともあって24年5月復活する。 この年は九州各県を回られ、25年には四国など、26年には近畿、2年飛んで29年には北海道と46都道府県の巡幸を終えられる。
全行程3万3千キロ、総日数165日に及んだ。この御巡幸が敗戦にうち沈んだ国民をどれほど励まし 「復興」 の力になったかは計り知れない。 ただ復帰後の沖縄ご訪問がさまざまな事情やご自身の病気で実現できなかったことを、最後まで気にかけておられたという。 (皿木喜久)