肉体は “ひと” の “霊” がそこに止まって表現を完うするための、中核的道具ではあるけれども、それだけが “ひと” ではないのである。 衣服や住居やその他いろいろの表現道具を交えたその 「間」 から発生する “霊的雰囲気” ぜんたいが人間なのである。
「人間」 はドテラを着たときにはドテラを着た心持になり、紋付羽織を着たときには紋付羽織の心持になり、背広を着たときには背広の心持になるのである。 わざとセーターや上衣の袖に手を通さないで羽織ってシャレタつもりでいる者は、その “姿の通りの脱線した人間” であり、ワイシャツの襟のボタンを外したままでキチンとした服装をしない彼は、彼がそんな服装をしているのではなく、彼がその 「服装そのままの外れた人間」 なのである。 彼の “人格” がその服装に表現されているのである。
人間は 「服装そのままの彼」 であるということをいったが、また、人間は 「食物そのままの彼」 であるということができるのである。 彼が牛肉や豚肉を美味しそうに貪って食うとき、彼は 「肉食獣そのものの彼」 になっているのである。
私は私の孫がどこかで会合するとき、たとえば友達に誘われて牛肉の料理などを食しているならば、彼はライオンか虎の孫であって、私の 『人間の孫』 であると見ないのである。 これは 「たとえば」 の話であって、私の孫がそんなことをしているとは思わないのであるが、もし “私の孫” がどこかでスポーツの試合をするために出発をするとき、試合に勝つためのスタミナをつけるために、その母親が私に内証で牛肉の料理をたべさせているとしたならば、私はその母親を 『ひと』 であるとはみとめないのである。 彼女は 「ライオンの母」 であり、 「虎の母」 であるとみとめる。 これは 『もし』 であって、私の孫がそうであるというのではない。
私は人間が獣の屍体を美味しそうに食べているのを想像するだけで、身ぶるいをするような嫌悪を催すのである。 人間は 『彼が食するところの姿』 そのものであるのである。
谷口雅春師 『理想世界』誌 45年7月号より
光明法話の過去記事は左欄『今日の言葉』