産経 2014.9.8 07:58
かつて1人の男の作り話が、これほど日本の国際イメージを損ない、隣国との関係を悪化させたことがあっただろうか。 朝鮮半島で女性を強制連行したと偽証した自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治のことだ。 吉田の虚言を朝日新聞などメディアが無批判に内外で拡散し、国際社会で 「性奴隷の国、日本」 という誤った認識が定着していった。 「吉田証言」 とは何かを考える。 (原川貴郎、是永桂一)
朝日新聞は8月5日付朝刊に掲載した特集記事 「慰安婦問題を考える 上」 で吉田清治について、 「確認できただけで16回、記事にした」 と説明し、初掲載は昭和57年9月2日付の大阪本社版朝刊社会面とした。
だが、さらに2年半さかのぼる55年3月7日付朝日新聞横浜版などに掲載された連載 「韓国・朝鮮人II」 に、横浜市内在住の著述業として、吉田清治が登場している。
執筆した元朝日新聞ソウル特派員 (現在はジャーナリスト) の前川惠司は、吉田に会ったときの印象について今年5月、産経新聞の取材にこう語っていた。
「吉田が 『自分の話を聞いてほしい』 と支局に電話をかけてきた。 3、4時間ぐらい話を聞いたが、 (女性を強制連行したはずの) 済州島の話は全く出なかった。 尋ねるたびに話のつじつまが合わなくなるので結局、多くは書かなかった」
この55年3月の記事に慰安婦という言葉や女性の強制連行に関する言及はみられない。 出てくるのは、労務者として吉田が狩り集めた 「農作業中の男」 「20歳代前半の若者」 「15、16歳の少年」 「50歳近くの男」 らだ。
それから2年半後の57年9月2日付で朝日は、吉田が証言する女性の 「強制連行」 の “実態” を報じた。 記事は 「朝鮮の女性 私も連行」 「暴行加え無理やり」 の見出しで、18年の初夏に、済州島で200人の若い朝鮮人女性を 『狩り出した』 とする吉田の講演内容を伝えたものだった。
吉田は、その1カ月後の57年10月1日付朝日新聞朝刊にも登場する。 「朝鮮人こうして連行」 「壮年男子根こそぎ 集落包囲、殴りつけ」 の見出しが付けられた記事は、ロシアのサハリン残留韓国人・朝鮮人の帰還訴訟で、証人として吉田が語った朝鮮人強制連行の模様を報じた。
さらに58年の秋から冬にかけ、朝日は立て続けに3回、吉田を登場させた。
「韓国の丘に謝罪の碑」 の見出しの10月19日付夕刊記事は、「『徴用の鬼』 と呼ばれた」 と自称する吉田が韓国に謝罪の旅に出かけ、謝罪碑を建立することを紹介。 11月10日付朝刊の 「ひと」欄は、「強制連行、初めて知りました」 との声を吉田に寄せた中学三年生がいたとし、「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる」 人物として、吉田を取り上げた。
そして12月24日付朝刊の記事 「たった一人の謝罪」 では、謝罪碑を建てた韓国・天安市で 「私は戦前数多くのあなた方を強制連行した張本人です」 との吉田のざんげの言葉とあわせて、土下座する吉田の姿を写真で伝えた。
次に吉田に関する記事が頻繁に載るようになるのは、平成に入ってからだ。
「名簿を私は焼いた 知事の命令で証拠隠滅 元動員部長証言」 (平成2年6月19日付大阪本社版朝刊)、 「木剣ふるい無理やり動員」 (3年5月22日付同)、 「従軍慰安婦 加害者側から再び証言」 「乳飲み子から母引き裂いた」 「日本は今こそ謝罪を」 (3年10月10日付同) に続き、夕刊1面コラム 「窓 論説委員室から」 も4年1月23日付、3月3日付と短期間のうちに吉田を2度、取り上げた。
産経新聞は4年4月30日付朝刊で、吉田証言に疑問を突きつけたが、それから1カ月もたたない5月24日付の朝日新聞朝刊記事は、 「今こそ 自ら謝りたい」 の見出しで、再び韓国に謝罪の旅に出かける吉田を紹介している。
産経新聞は、この記事を含め4年5月以降、吉田を扱った朝日の記事が少なくとも6本あることをマイクロフィルムや縮刷版などで確認した。