産経 【挿絵で振り返る「アキとカズ」】2014.8.31 07:00
産経新聞の連載小説 「アキとカズ」 は、昭和34(1959)年12月から始まった、北朝鮮への帰国事業 “前夜” の日本社会を引き続き描いている。
この中に、31年2月、日朝の赤十字が戦後初めて北朝鮮からの日本人帰還問題で合意する場面がある。 今回の日朝協議でも焦点のひとつである 「北朝鮮残留日本人」 のことだ。
戦前、現在の北朝鮮地域には、日本がつくった東洋一の化学工場、興南工場やそこへ電力を供給する水豊ダム、さらには鉄鉱石や石炭などの鉱物資源も豊富にあり、そこで働く技術者、労働者など約30万人の日本人がいた。 終戦時にはソ連の侵攻から逃れてきた満州 (現中国東北部) 在住の避難民などが加わり、約32万人の日本人が残っていたとみられている。
小説の舞台である樺太を始め、満州、千島、朝鮮北部 (北朝鮮) ・・・ ソ連侵攻地域からの引き揚げはいずれも地獄絵図のような悲惨な状況となった。
とりわけ北朝鮮からの引き揚げ者は辛酸をなめた。 組織的な引き揚げはほとんど行われず、自力で日本を目指すしかない。 ところが、ソ連軍は早々と米軍が支配する南の地域 (後の韓国) との境界線である38度線を封鎖。越境しようとした者には容赦なく銃弾を浴びせたのである。
動きが取れない日本人は収容所へ送り込まれたが、劣悪な環境でコレラなどが蔓延(まんえん)、食事の配給も満足になく、多くの人たちがなすすべもなくバタバタと死んでいった。
作家の五木寛之さん(81)も平壌で終戦を迎えたひとりである。 当時13歳。 母親が亡くなり、五木さんは父親と幼い弟妹を連れて決死の覚悟で38度線を越える。 そして、当時は南の地域に属していた開城の米軍キャンプにたどりつき、九死に一生を得た。
五木さんの母親のように混乱と苛酷な環境下で命を落とした日本人は3万5千人以上に上るという。
昭和31年の日本人帰還問題の際、北朝鮮は、当時まだ1000人とも2000人とも言われた残留日本人のうち、 「たった36人しか」 帰さなかった。 それだけしか 「帰国希望者がいなかった」 というのである。
そんなはずはあるまい。 戦後11年、やっと巡ってきた懐かしい祖国への帰還のチャンスである。 後にも先にも、北朝鮮は残留日本人を帰したのはこのときだけだったのだから。
今回、日朝協議で、当時北朝鮮で亡くなった日本人の遺骨返還や、 「残留日本人」 の帰国問題が改めて注目されている。
戦後69年、 「あまりにも遅すぎた」 というべきであろう。 残留日本人はすでに 「35人」 しか残っていないとされる。 日本政府からも長い間、忘れられ、北の地で土になった日本人の無念さはいかばかりか。
今度ばかりは 「希望者がこれだけしかない」 などという北朝鮮のばかげた言い分をうのみにするわけにはいくまい。
(「アキとカズ」作者、喜多由浩)